海辺の風景

海野さだゆきブログ

「The Turing Test」Steam版

言ってみればパズルゲームです。設定は宇宙空間。基地で制御コンピュータが「反乱」。という感じです。で、すごい数、70個でしたっけ、のゲートの「パズル」を解いて突破して、中央制御室まで行く、という。

 

いやあ、難しかった。50までたどり着いたところで、自力クリアをギブアップ(笑)。こりゃ参ったというゲートは攻略方法を参考に突破してゆきましたけど、位置やタイミングが難しくて突破に足掛け3日という個所が2つありました。足掛け2日ならばあと2つ。難しかったです。

 

面白かったですよ。途中から、なかなかうならせる設定がありまして、これが楽しくもやたらと難しいのです。

 

今回はXBOXのコントローラでやりました。STEAMコントローラだと、ちょっと反応が敏感すぎて、調整する面倒を避けてしまいました。でも間違いなく調整したSTEAMコントローラの方が良いですよ、きっと。

 

あ、日本語対応は全くありません。でも、途中のセリフは全然難しくないですし、設定はすぐにわかりますから、なんとかなります、たぶん。楽しいゲームでした。

『退歩のススメ』その4

問題は常に「そもそもは」を考えることで解決します、と思っているので、「韓氏意拳とはなに」を知るために本を買ってみました。『駒井式やさしい韓氏意拳入門』駒井雅和 著。

 

紹介文でわかりました。意拳創始者、王先生は子供のころ病弱だったそうです。それで形意拳の郭先生に学んだのです。

 

そうか、王先生が形意拳をどうして学ぼうと思ったのかは分かりません。親のススメだったのかも知れませんし、本人の発起だったのかもしれません。

 

いずれにせよ、僕は郭先生が偉かったと思います。王先生がどの程度病弱だったのか、何才で始めたのかはわかりませんが、駒井先生の本の順番で指導が進んだとすれば、王先生の体の状態に適切なプログラムだったと思うのです。

 

これ、今風に云えば、心拍数をあまり上げないで血流量を増やす動きですし、自重運動なので、筋肉や関節に負担がかかりません。

 

で、中心となる「ザンゾォン」ですが、拳式とか、これらは病弱児童には体ってこうなんだ、という事を感じさせてくれたものだったと。

 

どうして?。王先生が僕並に病弱だったとします。僕は8才で最初、10才で再発という経緯ですが、どのみち子供の遊びについてゆけなくなりました。そもそも入院ばっかりしていましたし(笑)。

 

子供の遊びは常に全力全速力です。それが心肺機能、筋力、敏捷性などなどを鍛え上げます。が、それらは本人に目的意識があるわけではありません、無意識ですね、それにそれが子供には楽しいのです。全速前進が。

 

病弱ゆえにそれができなかった先生は、形意拳を学ぶ時に、たぶんいちいち気づきが起こったのでしょう。先生が指示する動きをやってみると自分に何が起こるのか、を。

 

それが楽しかった。自分ってこうなんだ、という気づきですね。病弱ゆえに、今風にいえばセルフモニター能力は研ぎ澄まされていたんです。強くなるとか、誰かを倒すとか、そういう他者との比較より、自分の状態の変化の方が遥かに面白かったし、楽しかった。

 

病弱ゆえに身体の社会化から外れていた。とも言えます。

 

何度も言いますけど、これは僕の想像です。でも、たぶん当っています。

 

体観、つまり体を観て行くこととは窮屈かもしれない自分の身体の現状と向き合い、見失った身体の発生を経験しながら新たな体を発見し、見守って行くことです。(『退歩のススメ』)

 

これ、病児の日常です。光岡先生をはじめ、健康で、「できてしまう」強い方々がなんで苦労するかと言えば、それが理由です。健康な人にはこれらの必要が普通ありませんから。

 

そして、そういう自分がいる自然が含まれている、というところは実は非常に重要です。病児は常に死が近いゆえに、自分がそこから生まれ、そこに還って行くであろう自然は自分の父であり母でもあるからです。

 

いやあ、面白かったです。韓式意拳は病児はぴったりなのではないでしょうか。どうでしょう?関係者の皆様。病児には病棟学校が必要で色々な試みがありますが、「拳法」を子供達に、っていうのは。

 

エビデンスだのなんだの云うアホなヤツは無視して(笑)。小児病棟に武術家を。

 

おしまい。

『退歩のススメ』その3

(引用)

光岡 だから上泉伊勢の守とか柳生石舟斎とか、達人と言われた人たちが現代に生を享けていたら、たぶん黙々と剣術の練習をしていないと思います。

内田 絶対していませんね。

光岡 それこそ原子力について勉強したり軍事力の研究をしつつ、それらが生み出す問題を回避する研究もあわせて進めていたと思います。

(引用終了『荒天の武学』第二章)

 

引用だらけになると煩わしいので、『退歩』『荒天』『体の知性』の3冊を僕なりにまとめてみますと.。.。。

 

武術とはサバイバル技術である。

現在の日本人は近代の西洋的な身体観を受け入れ、体を機械のように扱っている。

日本の教育は体を緊張硬直させ、画一的機械的なものに変質させている。

稽古とは忘れ去られた昔の体を取り戻すことである。

 

焦点は古のサバイバル技術を成立させていた昔の体とはどういうものなのか、ということでしょう。

 

尹さんの本が一番分かりやすいとは思いますが、それでも一読しただけではたぶんちんぷんかんぷんの可能性が大だと予想します。光岡さんは「体の無いところを観る」という言葉を使っていますが、これもまた何のことかさっぱりわからないでしょう。

 

「観察とは、行いの中で見えてくるものを体まるごとで見るのであって、そこに既知を見出すものではない。」(『体の知性』まえがき)

 

わかんないですよね。僕はなんとなくわかるんです。ずっとスロージョグを続けているってお話ししましたけど、ある時からなんで気持良いのか分かったのです。

 

なんか「整う」んです、走ると。

 

今風に言えば、普段仕事で特定の動きを強いられていた体の本来の機能性が戻る感じ、でしょうか。

 

例えば、体を使う仕事をしていても、それは特定の動き、それも作業に指定された、順序も動き方も力加減も同じ、という動きを何度も繰り返す、ということしかしません。それは作業の都合に体をあわせているわけで、本来体が持つ機能性は無視されています。

 

まあ、ようするに、体には太古の昔から身につけられた、反応レベルまでになった体の連動性があるんですね。前に紹介したランニングの本では「ラン反射」なんて言葉が出てきますけど、二足歩行自体が気が遠くなるほどの年月をかけて獲得した一連の動作なんですね。

 

その個別学習過程も、それこそ、赤ちゃんの時の寝返りに始まり、はいはい、つかまり立ち、と体に埋め込まれています。それら一連の体の動きを獲得することで二足歩行は成り立っています。そこまでゆけば確かに反射と言ってよいくらい意識には上ってきません。

 

コンテナ化。

 

ところが、現在、そうして獲得され、体に埋め込まれている一連の体の動きが省みられない場面が多いのですね。というか、ほとんどすべて。特に仕事では。

 

子供が一日中椅子に座っているなんて、人類の歴史からすれば「そんな馬鹿げたことをなぜするのか」でしょう。自然の中で生き抜くための一連の体の動きは自然の中でしか身につかないのです。その学習機会を無くしてしまい、結果、自然の中でサバイバルできない体で成人になってしまう。

 

たぶん、ロバでモロッコ砂漠を旅するなんて、人類は誰でもできたのです。いまは超難易度ですよね。そう、彼なんか立派な武術家ですよ。あの姿勢は武術です。

 

一番機能性を獲得すべき時期に一日中座っている。人類としてはまずいですよ。現代文明は自然から人を守ってはくれませんから。もう日本人ならば身にしみていますよね。

 

な、長いですね、でも、まだ続きます。

 

『退歩のススメ』その2

なんだか取り散らかっているので、書き直しをしますね(笑)。

 

『荒天の武学』内田樹、光岡英稔 著、を読んだときも思ったのですけど、なんかこう「入ってこない」んです。これは僕の読む力がないのが原因だと思っていました。内田さんの著作は5冊は読んでいるんですけど、なにかこう内田さんの言葉も入ってこない.。.。どうして?

 

『退歩のススメ』を読んだとき、これは時間がかかると思いました。『荒天』時と違って「入ってきた」のです。たぶん、禅僧である藤田さんは、言葉を費やすという態度がないため、言葉があまり「編集」されていないためだろう、と想像しました。

 

『退歩』の「あとがき」の藤田さんの「生の」文章は本文とさして変りません、僕の想像はあっていると思いました。そして、気になる人物が紹介されていました。尹雄大さん。

 

はっとして見て見ると『荒天』も尹雄大さんが「ライター」だったのです。そうか、やはり。そして尹さん自身の著作がいくつかありました。速攻で読みました。

 

『体の知性を取り戻す』尹雄大 著。もう最初の方を読んだだけでも分かりました。尹さんは光岡さんの元で拳法を学んでいます。そうか、この人が介在したという事が僕の分かりにくさの原因だったんですね。

 

尹さんの著作を一冊ですけど読んだあと、『荒天』も『退歩』も読み直しました。これらは尹さんの本ですね。そういう視点から読み直すと実にすいすいと「入ってきました」。

 

僕には思い当たることがあります。僕は梶原一騎先生のファンですから。光岡さんと尹さんの関係は、大山さんと梶原先生の関係とよく似ていると思いました。

 

自分の読む力のなさを棚に上げて言うのは説得力ないですけど、『荒天』『退歩』の読みにくさは尹さんのフィルタが分かりにくかったからですね。梶原先生は「これは事実であり、この男は実在する」とは言いましたけど、全部本当だなんてありえないです。人が語る、作るお話に本当か嘘かなんてレベルはそもそもありません。そう、ぜんぶ「フィクション」なんです。

 

梶原先生は虚実の狭間で迷路にはまってしまった時期がありました。たぶん、ご自身の願望、世の中への洞察、そして成功体験がなによりですけど、「事実を元にしたフィクションです」という「作家」から離れてしまい、「現実をプロデュースする」方に行ってしまいました。

 

尹さんは優秀な書き手だと思いますが、それゆえに、対談をご自身の方向でまとめてしまいましたね。おそらく。尹さんは徹頭徹尾「体」にこだわっています。ですが、どこかしら対談者たちの偉大さを社会的にアピールしたい、という姿勢がにじみ出ているように思います。

 

それが原因であちこち「体」以外に話が行った部分を切っていないと思います。切ってしまって良いです。「体」の話は分かりにくいです。いきおい、社会の話ですとか歴史の逸話とかは圧倒的に分かりやすく、読む方はそこから入っていってしまうのです。読み物としては良くなるのかもしれませんが焦点がぼやけます。「先生はエライ」という「現実をプロデュース」方向になる危険が大きいと思います。

 

「先生方、話がそれてます」とざっくり切って欲しかったです。

 

藤田さんはおそらくですが、光岡さんに「どうして殺傷技術か?」を一番問うたはずです。仏教は暴力が結局はダメ、つまり無効という結論に達しているはずですから。

 

というか、そもそも「体」「身」は仏教では有効なんですか?違うでしょう。そうやって仏教は暴力に対峙したように思います。でも、そうした仏教は今現在、この日本、世界で果たして有効なんでしょうか?

 

あれ、随分と長くなってしまいました。つづく。で。

『退歩のススメ 失われた身体観を取り戻す』藤田一照 光岡英稔 その1

昨日は春分の日、風は強かったですが良い天気で気温も高く、暑さを感じるほどでした。妻とふたり自転車で走っていたところ、目的地まであと半分というところで、前の方が騒がしいのです。

 

どうも事故があったらしく、警官が交通を整理しており、救急車がまもなくサイレンを鳴らし病院へと向かいました。休日とはいえ、あまり人の集まるようなところではないので、かなりの人がいました。

 

自治体開催の駅伝大会が開かれていたのです。僕らのルートはそのコースになっていたのでした。大勢のいかにもランニングが趣味ですっていう恰好の人たちで狭いコースはあふれていました。

 

うーん、困ったなあ、想定していたコースはどうも大会時間は通れないのでした。大回りをすることになりました。それにしても人の多いこと。コースではないところまで道に広がって塞いで、はっきりいって迷惑です。公道ですよ。でも、そういえば広報でお知らせあったなあ、こっちのミスだわ.。.。

 

さっきの救急車はランナーが倒れて運ばれたのでしょう。この暑さです。急な気温上昇に体がついて行けなかったのでしょう。

 

ランナーたちとは反対方向に走ることになりました。ここはアップダウンがかなり頻繁にあるところで、楽ではないです。ただ、すれ違うランナーは誰もが苦痛に顔をゆがめ、フォームもへったくれもなく、もがくようにしていました。

 

そして、この状況なのに、だれも水を持っていません。給水ポイントがあるのかどうなのかしりませんけど、主催者に頼るのは危険でしょう。アマチュアなのですし、自助が基本では?

 

で、その暑さとコースのきつさに苦悶の表情のランナーばかり見ていたら、嫌な気分になりました。

 

苦しかったらやめればいいのに。自分が楽しめるペースとかやり方で走ればいいのに」と。ましてや救急車で運ばれるなんて、趣味としてはおかしいのではないか、と。

 

妻は「そうやって頑張っているのが本人にはいいんじゃない?」と。僕は音楽が趣味です。人前で演奏する時に、自分では無理、とかきつくてやめたくなるようなことをステージ上でやるなんて考えられません。自分も楽しくない、聞いている方も辛い、なんてあり得ません。

 

コースは景色のよいところです。アップダウン、コーナーの多い、変化に富むコースです。それって、走っていて楽しくないですね?僕は地元なのでそれこそ子供のころから自転車で何度も走りましたけど、楽しいですよ。夏はさわやか、花の季節変化も楽しいです。

 

主催した自治体は、そういう地元の景色を楽しんで欲しかったのではないでしょうか。あんな罰ゲームで走らされているような状態では、そうした良さは全く感じないでしょう。地元民だから「がんばれよ」とでも声かけたいところですけど、刑罰で走っているみたいな人たちにかける言葉なんてありませんでした。

 

苦しんでいる自分がかっこいい?そういうことなんでしょうか?でも、全然かっこよくないですよ。途中、100人くらいとすれ違いましたけど、ただ一組の男女が楽しそうに話しながら走っていました。あとの98人は全員「懲罰」って感じで.。.。

 

苦しいっていうのは体の悲鳴です。顔が紅潮し、どうみても体が水を欲しているのに、無給水..。。僕には分かりません。

 

試合?ただ勝つのが目的ならば、勝てるレベルの試合に参加すればよいのではないですか?

 

克己?体が悲鳴をあげているのは、単なる「自虐」です。苦しくないレベルの大会で、苦しくないペースで楽しむのが趣味ではないのですか?

 

僕はもう6年間一日おきのインターバルのスロージョグをやっています。3分を5本。時々30分のスロージョグもします。ペースはキロ9分30秒から10分。脈拍は115前後です。僕の体ではそれが一番楽しいのです。60才、心臓病、右膝靭帯なし、の僕はそれが楽しいです。ガーミンの腕時計でデータをとり続けています。

 

最初はちょっと速く歩いて、段々と走れるようになりました。生涯最長距離は10キロメートル。たぶん二度とそういう距離は走りません。

 

僕は病弱児童でしたので、体を痛め付けるとどうなるか、身を持って知っています。小学生の時には「自分と戦って勝つには自殺しかない」と理解しました。病気と「戦う」とどうなるか、小児病棟は冷酷に結果を示します。死ぬんです。あっけなく。例外なく。

 

退院の予定日は週ごとに変りました。あと3日、となっても、急に10日後になります。それがどうしてなのか、僕は日記をつけることで、考えました。何が違うと病状は悪化するのか、何が違うと良くなるのか。

 

病院でベッドに寝たきりです。病室の、医療の環境はまったく変らない日々です。変化するのは自分の「何か」なのです。投薬も安静もまったく関係ないのがわかるのに時間はかかりませんでした。

 

そんな人生を送っていた僕は、この本で語られていることがびしびし共感できました。

 

体の事って、ちょっと間違えるとオカルトになってしまうんです。子供のころ、宗教のお誘いは多かったですよ(笑)。そっちに行ってしまうご家族も多かった。.。.。

 

でも病弱児童のリアルとしては、それは僕とは関係ない、でした。体の状態はそうしたものでは変化しないのです。

 

朝、起きたときのカーテンにあたる日の光や揺れ、空気の匂いで天気を知る。心臓が不整脈で暴れる。そうしたことはただそうなっているだけです。そんな時には体調は優れてよいのです。病状ではないですよ

 

がんばろう、とかはまあ悲惨な結果にしかなりません。がんばりようがないのはすぐに知りましたし(笑)。

 

小児病棟のこどもたちが具合い悪くなるのは決まっています。それもイヤというほど目前にします。休日に親が面会に来ます。その夜です。夜中病室は嘔吐、せき込み、喘鳴、鳴き声が突然始まります。小さい子供たちは元々ナースコールなんて自分で押せません。

 

僕はベッドから下りてはいけないという安静レベルですが、嘔吐物が詰まって死んでしまうかもしれないことを知っていますから、裸足で床に下りて、起立性貧血でふらふらになりながらも、ナースステイション、廊下と看護師を探しに行きます。

 

親は知りません。自分が面会に行くとその夜に状態が急降下するなんて。たぶん看護師も医師も話していないでしょう。で、僕は看護師たちが容体の急変した子供に対処する横で、天井がぐるぐるするなか、自分のベッドに戻るんです。

 

これをメンタルのせいだ、とか思った方は、間違いです。親が来ると、こどもは病気でいられないのです。病気なのに病気でない自分に「なる」。体は当然悲鳴をあげるのですが、親がいるあいだはそれを無理やり押さえ付けるのです。そして、それが緩んだとき、体は無理を強いられた分、そういう反応をします。

 

安心して「病気でいられる」。それが「安静」という言葉がふさわしいのかどうかは分かりませんが、僕は急転直下「緊急状態」になるこどもたちを見て、「病気でいられる病人」であることが最低限必要であることを知りました。

 

僕はその後、退院するのですが、そこで一番興味を持ち、勉強したのは「気象」でした。冷蔵庫で気象を再現するという、子供向け読み物を読んだ僕は、引きずり込まれるように気象に興味を持ちました。

 

そうなんです。今ならば分かるのですけど、冷蔵庫の中の「気象現象」は、僕が長い入院中に探り当てたことそのものなんです。その日の天気が分かるのは「自分の中の気象」と何かが同じだったからです。

 

今ならば、「気象が体におよぼす影響」なんて言葉を使うのでしょうけど、僕には「自分の中の自然」が「外の自然」と区別がつかなかったです。どちらも自分では制御できない。というか、制御するものではない、と。

 

ははは、オカルトっぽいですねえ。

 

追記

というか、本について全然語っていないですね。そこは新たに書き起こします。はい。

『型破りマラソン攻略法』岩本能史 著

僕自身はマラソンはしません。なぜこういう本を読むかと云えば、職場で趣味にしていた人が「どうすればサブ3」と、世間話をしてきたのをきっかけに、走るというのは実際、どういうことなんだろう、と思ったからです。

 

話しかけてきた人は僕に本気で相談したわけでもないのは分かっていましたけど、トレーニングとしてスロージョグを続けていた僕は、走ること自体への理解を深めるとなんか面白いだろうと思ったのです。

 

『ボーン トゥ ラン』は極めて優れた「人間とはなにか」へのアプローチでもありました。本当に面白かったです。

 

で、この本ですけど、僕が知る限り、圧倒的に正しいです。かの「どうやってサブ3」の解答はここにあると思います。僕自身は高齢、かつ十字靭帯が「ない」という事情からトライできませんけど(笑)。

 

ただ、気になったのは、参考文献の表示がまったくない、「定点観察」という言葉で根拠を示していますけど具体的な方法や数字がない、とか、著者の感想でしかないような記述がある、という点でしょうか。これは編集の怠慢でしょう。これでは信頼性が怪しくなります。

 

最近のトレーニング理論、やらなにやらを読んでいれば、「あ、これはあそこに書いてあることね」とすぐに思い当たることなので、わずかな紙面を惜しんだ編集は残念です。

 

そして、文面が淡白なのがまた、読んでいてのひっかかりのなさを作っています。しかし、これ、理由は最後に分かります。著者はもうマラソンにあんまり魅力を感じていないのです。そう、「ウルトラマラソン」の世界にどっぷりの様子です。

 

それはおそらくは「いわゆるトレーニング」とはまったく別の原理がはたらく世界を見せるからではないかと想像します。著者もまた『ボーン トゥ ラン』が見せてくれた世界に魅せられた人なのではないでしょうか。

 

とまれ、マラソンを趣味にしている人はこの本がよきガイドになると思います。

 

『ドカせん』渡辺保裕 著 全3巻

まさかの『ドカコック』の続編です。ドカとは「職人」、それも建設関係の、です。凄腕のドカはまた料理も達人。疲れはて問題の起こっている現場を料理で解決して行くという、、、って、説明では分からないですよね(笑)。

 

それを『北斗の拳』ばりの絵で展開するまんがです。

 

え?ギャグまんがかって?ちがいます。大まじめな、ど直球の感動まんがです。

 

第一話は、建設現場に実習に来たやるき満々の土木科高校生と、怪我でもされちゃ困るとお客さん扱いする現場のドカたちが対立します。そこにいたドカせん、それを見事な料理見立てで解決します。

 

料理見立てってなに?って、こんな調子です。

 

「チャーシューの固まりは山留め壁」

「そしてナルトとネギは逆打工法」

「まとめて刻むのは配筋と結束」

「炒めるのはコンクリート流し込み!!」

 

え?さっぱり分からないですか?まあ、そうやって作られた料理を双方に振る舞うと、食べてゆくうちにあら不思議、互いのこころのわだかまりは消え、めでたし、めでたし.。.。

 

余計分からない?

 

このまんが、実は現場の疲弊、技術伝承、などなど、本当に今建設現場が、業者や職人が抱えている問題を正面に据えています。最後は大仕事が待っています。

 

いやあ、これは僕は大好きです。なかでもうなったのは「溶接の未来」の回ですねえ、って、分かりませんかねえ、現場の色んな技術.。.。僕は父が大工だったので、ちょっとは分かるんですけど.。.。でも読めば分かりますし、うなりますよ。はい。

 

絶対のお勧め。