なんだか取り散らかっているので、書き直しをしますね(笑)。
『荒天の武学』内田樹、光岡英稔 著、を読んだときも思ったのですけど、なんかこう「入ってこない」んです。これは僕の読む力がないのが原因だと思っていました。内田さんの著作は5冊は読んでいるんですけど、なにかこう内田さんの言葉も入ってこない.。.。どうして?
『退歩のススメ』を読んだとき、これは時間がかかると思いました。『荒天』時と違って「入ってきた」のです。たぶん、禅僧である藤田さんは、言葉を費やすという態度がないため、言葉があまり「編集」されていないためだろう、と想像しました。
『退歩』の「あとがき」の藤田さんの「生の」文章は本文とさして変りません、僕の想像はあっていると思いました。そして、気になる人物が紹介されていました。尹雄大さん。
はっとして見て見ると『荒天』も尹雄大さんが「ライター」だったのです。そうか、やはり。そして尹さん自身の著作がいくつかありました。速攻で読みました。
『体の知性を取り戻す』尹雄大 著。もう最初の方を読んだだけでも分かりました。尹さんは光岡さんの元で拳法を学んでいます。そうか、この人が介在したという事が僕の分かりにくさの原因だったんですね。
尹さんの著作を一冊ですけど読んだあと、『荒天』も『退歩』も読み直しました。これらは尹さんの本ですね。そういう視点から読み直すと実にすいすいと「入ってきました」。
僕には思い当たることがあります。僕は梶原一騎先生のファンですから。光岡さんと尹さんの関係は、大山さんと梶原先生の関係とよく似ていると思いました。
自分の読む力のなさを棚に上げて言うのは説得力ないですけど、『荒天』『退歩』の読みにくさは尹さんのフィルタが分かりにくかったからですね。梶原先生は「これは事実であり、この男は実在する」とは言いましたけど、全部本当だなんてありえないです。人が語る、作るお話に本当か嘘かなんてレベルはそもそもありません。そう、ぜんぶ「フィクション」なんです。
梶原先生は虚実の狭間で迷路にはまってしまった時期がありました。たぶん、ご自身の願望、世の中への洞察、そして成功体験がなによりですけど、「事実を元にしたフィクションです」という「作家」から離れてしまい、「現実をプロデュースする」方に行ってしまいました。
尹さんは優秀な書き手だと思いますが、それゆえに、対談をご自身の方向でまとめてしまいましたね。おそらく。尹さんは徹頭徹尾「体」にこだわっています。ですが、どこかしら対談者たちの偉大さを社会的にアピールしたい、という姿勢がにじみ出ているように思います。
それが原因であちこち「体」以外に話が行った部分を切っていないと思います。切ってしまって良いです。「体」の話は分かりにくいです。いきおい、社会の話ですとか歴史の逸話とかは圧倒的に分かりやすく、読む方はそこから入っていってしまうのです。読み物としては良くなるのかもしれませんが焦点がぼやけます。「先生はエライ」という「現実をプロデュース」方向になる危険が大きいと思います。
「先生方、話がそれてます」とざっくり切って欲しかったです。
藤田さんはおそらくですが、光岡さんに「どうして殺傷技術か?」を一番問うたはずです。仏教は暴力が結局はダメ、つまり無効という結論に達しているはずですから。
というか、そもそも「体」「身」は仏教では有効なんですか?違うでしょう。そうやって仏教は暴力に対峙したように思います。でも、そうした仏教は今現在、この日本、世界で果たして有効なんでしょうか?
あれ、随分と長くなってしまいました。つづく。で。