(引用)
光岡 だから上泉伊勢の守とか柳生石舟斎とか、達人と言われた人たちが現代に生を享けていたら、たぶん黙々と剣術の練習をしていないと思います。
内田 絶対していませんね。
光岡 それこそ原子力について勉強したり軍事力の研究をしつつ、それらが生み出す問題を回避する研究もあわせて進めていたと思います。
(引用終了『荒天の武学』第二章)
引用だらけになると煩わしいので、『退歩』『荒天』『体の知性』の3冊を僕なりにまとめてみますと.。.。。
武術とはサバイバル技術である。
現在の日本人は近代の西洋的な身体観を受け入れ、体を機械のように扱っている。
日本の教育は体を緊張硬直させ、画一的機械的なものに変質させている。
稽古とは忘れ去られた昔の体を取り戻すことである。
焦点は古のサバイバル技術を成立させていた昔の体とはどういうものなのか、ということでしょう。
尹さんの本が一番分かりやすいとは思いますが、それでも一読しただけではたぶんちんぷんかんぷんの可能性が大だと予想します。光岡さんは「体の無いところを観る」という言葉を使っていますが、これもまた何のことかさっぱりわからないでしょう。
「観察とは、行いの中で見えてくるものを体まるごとで見るのであって、そこに既知を見出すものではない。」(『体の知性』まえがき)
わかんないですよね。僕はなんとなくわかるんです。ずっとスロージョグを続けているってお話ししましたけど、ある時からなんで気持良いのか分かったのです。
なんか「整う」んです、走ると。
今風に言えば、普段仕事で特定の動きを強いられていた体の本来の機能性が戻る感じ、でしょうか。
例えば、体を使う仕事をしていても、それは特定の動き、それも作業に指定された、順序も動き方も力加減も同じ、という動きを何度も繰り返す、ということしかしません。それは作業の都合に体をあわせているわけで、本来体が持つ機能性は無視されています。
まあ、ようするに、体には太古の昔から身につけられた、反応レベルまでになった体の連動性があるんですね。前に紹介したランニングの本では「ラン反射」なんて言葉が出てきますけど、二足歩行自体が気が遠くなるほどの年月をかけて獲得した一連の動作なんですね。
その個別学習過程も、それこそ、赤ちゃんの時の寝返りに始まり、はいはい、つかまり立ち、と体に埋め込まれています。それら一連の体の動きを獲得することで二足歩行は成り立っています。そこまでゆけば確かに反射と言ってよいくらい意識には上ってきません。
コンテナ化。
ところが、現在、そうして獲得され、体に埋め込まれている一連の体の動きが省みられない場面が多いのですね。というか、ほとんどすべて。特に仕事では。
子供が一日中椅子に座っているなんて、人類の歴史からすれば「そんな馬鹿げたことをなぜするのか」でしょう。自然の中で生き抜くための一連の体の動きは自然の中でしか身につかないのです。その学習機会を無くしてしまい、結果、自然の中でサバイバルできない体で成人になってしまう。
たぶん、ロバでモロッコ砂漠を旅するなんて、人類は誰でもできたのです。いまは超難易度ですよね。そう、彼なんか立派な武術家ですよ。あの姿勢は武術です。
一番機能性を獲得すべき時期に一日中座っている。人類としてはまずいですよ。現代文明は自然から人を守ってはくれませんから。もう日本人ならば身にしみていますよね。
な、長いですね、でも、まだ続きます。