海辺の風景

海野さだゆきブログ

『退歩のススメ 失われた身体観を取り戻す』藤田一照 光岡英稔 その1

昨日は春分の日、風は強かったですが良い天気で気温も高く、暑さを感じるほどでした。妻とふたり自転車で走っていたところ、目的地まであと半分というところで、前の方が騒がしいのです。

 

どうも事故があったらしく、警官が交通を整理しており、救急車がまもなくサイレンを鳴らし病院へと向かいました。休日とはいえ、あまり人の集まるようなところではないので、かなりの人がいました。

 

自治体開催の駅伝大会が開かれていたのです。僕らのルートはそのコースになっていたのでした。大勢のいかにもランニングが趣味ですっていう恰好の人たちで狭いコースはあふれていました。

 

うーん、困ったなあ、想定していたコースはどうも大会時間は通れないのでした。大回りをすることになりました。それにしても人の多いこと。コースではないところまで道に広がって塞いで、はっきりいって迷惑です。公道ですよ。でも、そういえば広報でお知らせあったなあ、こっちのミスだわ.。.。

 

さっきの救急車はランナーが倒れて運ばれたのでしょう。この暑さです。急な気温上昇に体がついて行けなかったのでしょう。

 

ランナーたちとは反対方向に走ることになりました。ここはアップダウンがかなり頻繁にあるところで、楽ではないです。ただ、すれ違うランナーは誰もが苦痛に顔をゆがめ、フォームもへったくれもなく、もがくようにしていました。

 

そして、この状況なのに、だれも水を持っていません。給水ポイントがあるのかどうなのかしりませんけど、主催者に頼るのは危険でしょう。アマチュアなのですし、自助が基本では?

 

で、その暑さとコースのきつさに苦悶の表情のランナーばかり見ていたら、嫌な気分になりました。

 

苦しかったらやめればいいのに。自分が楽しめるペースとかやり方で走ればいいのに」と。ましてや救急車で運ばれるなんて、趣味としてはおかしいのではないか、と。

 

妻は「そうやって頑張っているのが本人にはいいんじゃない?」と。僕は音楽が趣味です。人前で演奏する時に、自分では無理、とかきつくてやめたくなるようなことをステージ上でやるなんて考えられません。自分も楽しくない、聞いている方も辛い、なんてあり得ません。

 

コースは景色のよいところです。アップダウン、コーナーの多い、変化に富むコースです。それって、走っていて楽しくないですね?僕は地元なのでそれこそ子供のころから自転車で何度も走りましたけど、楽しいですよ。夏はさわやか、花の季節変化も楽しいです。

 

主催した自治体は、そういう地元の景色を楽しんで欲しかったのではないでしょうか。あんな罰ゲームで走らされているような状態では、そうした良さは全く感じないでしょう。地元民だから「がんばれよ」とでも声かけたいところですけど、刑罰で走っているみたいな人たちにかける言葉なんてありませんでした。

 

苦しんでいる自分がかっこいい?そういうことなんでしょうか?でも、全然かっこよくないですよ。途中、100人くらいとすれ違いましたけど、ただ一組の男女が楽しそうに話しながら走っていました。あとの98人は全員「懲罰」って感じで.。.。

 

苦しいっていうのは体の悲鳴です。顔が紅潮し、どうみても体が水を欲しているのに、無給水..。。僕には分かりません。

 

試合?ただ勝つのが目的ならば、勝てるレベルの試合に参加すればよいのではないですか?

 

克己?体が悲鳴をあげているのは、単なる「自虐」です。苦しくないレベルの大会で、苦しくないペースで楽しむのが趣味ではないのですか?

 

僕はもう6年間一日おきのインターバルのスロージョグをやっています。3分を5本。時々30分のスロージョグもします。ペースはキロ9分30秒から10分。脈拍は115前後です。僕の体ではそれが一番楽しいのです。60才、心臓病、右膝靭帯なし、の僕はそれが楽しいです。ガーミンの腕時計でデータをとり続けています。

 

最初はちょっと速く歩いて、段々と走れるようになりました。生涯最長距離は10キロメートル。たぶん二度とそういう距離は走りません。

 

僕は病弱児童でしたので、体を痛め付けるとどうなるか、身を持って知っています。小学生の時には「自分と戦って勝つには自殺しかない」と理解しました。病気と「戦う」とどうなるか、小児病棟は冷酷に結果を示します。死ぬんです。あっけなく。例外なく。

 

退院の予定日は週ごとに変りました。あと3日、となっても、急に10日後になります。それがどうしてなのか、僕は日記をつけることで、考えました。何が違うと病状は悪化するのか、何が違うと良くなるのか。

 

病院でベッドに寝たきりです。病室の、医療の環境はまったく変らない日々です。変化するのは自分の「何か」なのです。投薬も安静もまったく関係ないのがわかるのに時間はかかりませんでした。

 

そんな人生を送っていた僕は、この本で語られていることがびしびし共感できました。

 

体の事って、ちょっと間違えるとオカルトになってしまうんです。子供のころ、宗教のお誘いは多かったですよ(笑)。そっちに行ってしまうご家族も多かった。.。.。

 

でも病弱児童のリアルとしては、それは僕とは関係ない、でした。体の状態はそうしたものでは変化しないのです。

 

朝、起きたときのカーテンにあたる日の光や揺れ、空気の匂いで天気を知る。心臓が不整脈で暴れる。そうしたことはただそうなっているだけです。そんな時には体調は優れてよいのです。病状ではないですよ

 

がんばろう、とかはまあ悲惨な結果にしかなりません。がんばりようがないのはすぐに知りましたし(笑)。

 

小児病棟のこどもたちが具合い悪くなるのは決まっています。それもイヤというほど目前にします。休日に親が面会に来ます。その夜です。夜中病室は嘔吐、せき込み、喘鳴、鳴き声が突然始まります。小さい子供たちは元々ナースコールなんて自分で押せません。

 

僕はベッドから下りてはいけないという安静レベルですが、嘔吐物が詰まって死んでしまうかもしれないことを知っていますから、裸足で床に下りて、起立性貧血でふらふらになりながらも、ナースステイション、廊下と看護師を探しに行きます。

 

親は知りません。自分が面会に行くとその夜に状態が急降下するなんて。たぶん看護師も医師も話していないでしょう。で、僕は看護師たちが容体の急変した子供に対処する横で、天井がぐるぐるするなか、自分のベッドに戻るんです。

 

これをメンタルのせいだ、とか思った方は、間違いです。親が来ると、こどもは病気でいられないのです。病気なのに病気でない自分に「なる」。体は当然悲鳴をあげるのですが、親がいるあいだはそれを無理やり押さえ付けるのです。そして、それが緩んだとき、体は無理を強いられた分、そういう反応をします。

 

安心して「病気でいられる」。それが「安静」という言葉がふさわしいのかどうかは分かりませんが、僕は急転直下「緊急状態」になるこどもたちを見て、「病気でいられる病人」であることが最低限必要であることを知りました。

 

僕はその後、退院するのですが、そこで一番興味を持ち、勉強したのは「気象」でした。冷蔵庫で気象を再現するという、子供向け読み物を読んだ僕は、引きずり込まれるように気象に興味を持ちました。

 

そうなんです。今ならば分かるのですけど、冷蔵庫の中の「気象現象」は、僕が長い入院中に探り当てたことそのものなんです。その日の天気が分かるのは「自分の中の気象」と何かが同じだったからです。

 

今ならば、「気象が体におよぼす影響」なんて言葉を使うのでしょうけど、僕には「自分の中の自然」が「外の自然」と区別がつかなかったです。どちらも自分では制御できない。というか、制御するものではない、と。

 

ははは、オカルトっぽいですねえ。

 

追記

というか、本について全然語っていないですね。そこは新たに書き起こします。はい。