老害。あなたはどうですかと問われれば、「はい、ばりばりに老害です」と答えます。で、僕の場合どうするのか、ですが。
「世のため人のためなんて言ってたらすぐくたばっちまんうんだよ」
と、念仏の鉄。
老害の原因は過去の成功体験に拘泥するからだと言われています。まあ、そのとおりなんですけど、僕が思うのは
その「成功体験」は検証されているの?
いやあ、成果はちゃんとあげた、数字にも出たし、あれで認められた、などなど、、、、、まあ、そうでしょうね。
その時は、、、、ね.。.。
例えばスポーツトレーニング、とか体の故障に対する施術は、10年前どころか、5年、いえ、2年前の「定説」も怪しい、はっきり言って否定されていたりします。
社会、会社、組織、人生とか、にも「その後」があるんです。そのときは大成功と思われていたことが、致命的な事件だったと、「再評価」されることなんてザラにあることです。
あなたや僕がいたときには成功という評価だったものは、その後にどう「再評価」されているのか、とっくに現場から離れている老人にはまったく分からないのです。
10年後、20年後も、あれで良かったのだ、という評価が動かないものなど、どれだけあるのでしょうか。
結局、、、、
「あのときはそれが最善だった」
でしかないと思うのです。
僕にもいくつか成功体験みたいなものがありますが、現在見直すと「調査不足」とか「定着しなかった」とか「後継者作り失敗」とか、いくらでも欠点が見つかります。
でも、「やったぜ」と思った直後とかにちゃんと検証作業はしていません。だって「成功」で思考停止しましたから。
ま、僕の成功体験なんてそんなものです。そんな「後処理」ができていないノウハウが10年後20年後の今有用性があるとは思えません。
それで、そういう「成功体験が未検証である」ことへの無意識の不安が成功体験にしがみつく原因になっているとも思うのです。
そして、それは「まだまだお役にたてるはず」という「未検証」な姿勢を生むのだと思うのです。
その「未検証」ぶりは、現場への関与の低さから来る「実際のデータ、状況を知らない」ことから意識をそらし、
お役に立ちたい病
という老害で現場に迷惑をかけるわけです。
ちょっと前のことです。よく運営やら実装やらに日常的に文句を言っている、ある高齢のパートさんについて、現役の現場責任者が「あの人、ほとんど何も知らないんだよな」とこぼしていました。
だよね.。.。だって、僕ら高齢のパートは生きた数字とか見られる立場ではないし、彼が誇る情報網だって、しょせん一部スタッフの「うわさ話」ですから。
「えー、そんなことも知らないのかよ」
と、僕はその人によく言われますけど、経営の本筋とは無縁の部署の高齢部隊にはまったく必要もない情報なんですよね、、、、、。
「まあ、あん時は最善と思ってやって、ある程度はモノにできたけど、振り返れば水準いっていたかどうか怪しいし、結局その後につながらなかったよな」
え?どこかのプロ野球球団の話かって?それは言わない約束でしょう(笑)。
まあ、重度の老害には「再検証されていない、継続していない」が薬になるのではないかなあ、と思っています。
自分で再検証は苦い作業ですけど、過去への責任という老いたものの勤め、「本来の仕事」はやっぱやっておくべき、と。そしてそれが僕の老害、お役に立ちたい病への処方箋になるかな、と。