昨日に続いて言葉遣い悪いです(笑)。
苦闘の末、新設の県立高校に入学できた僕でしたけど、体力のなさはどうもしようがなかったのでした。
なにしろ深呼吸が辛くてできないのです。その程度の体力.
え?
いえいえ、呼吸も体力筋力必要なんです。普通に深呼吸できるようになるまでに僕はかなりの時間を必要としました。
20時まで起きていられないのです。大抵は19時台でふとんのなか。
もう18時頃には限界が来ていました。もうろうそくが消えるように疲れはてて寝てしまいました。
この体力のなさについての逆襲についてはひと話分ありますが、今回はそれじゃなくて、
「おまえ、どうやって食って行くんだよ」と父親から言われるのが本当に辛かったのです、という話です。
どうやって?そんな将来のこと考えられない、第一将来ってあるの?俺には、、、、状態だったのです。
症状が起る度に生存確率が25%下がって行く病気を再発させて、すでに生存確率が50%以下になっていたのです、当時の医療では。もし次に再発したら僕は75%の確率で死亡なんです。
そんな状態で、学校生活が最低線でぎりぎりという状態で、「食う」将来なんてあるとは到底思えないんです。その人間に18才とか20才に生存している、それも社会生活が送れる状態で生存しているのを前提とした質問なんてよくするよ。
第一、再発したの誰のせいだよ。素人考えで僕の主治医に罵詈雑言投げつけて治療途中なのに勝手に僕を退院させて、予後が不完全になったから再発してしまったんだよ。父上、あなたの責任はどうなっているんでしょう(笑)。
まあ、日本男子らしい「責任は神様」の思考ですけど、本人はその責任の重さに耐えられず、当の僕に不安をぶつけていたわけですね。まあ、弱いなあ。そんな根性じゃ闘病はできないよ。父は晩年それを証明してしまうんですけど.。.。
で、体力なし、生存確率50%以下の状態の僕は「将来」と言われる度に気分はどん底でした。
「将来なんて考えられねえよ」
現実がそうだったワケですけど、この姿勢が実は良かったのです。
どういうこと?
前回、僕は「自分」と対話して「自分」の味方になることで、最悪の状態を脱したとお話ししました。
それによって僕の「OS」はリアルタイム性しかなくなったのです。林先生じゃないですけど「今でしょ」。リアルタイムで「自分」と対話していないと僕は生命維持が危ういと思い知ったのです。
中学の時も、高校の時も好きな女の子に告白してオッケイをもらいました。なんだよ、おまえ幸せじゃないかよって、違うんです。
明日どうなるかわからないから、今言っておかないと自分が可哀想すぎたんです。本気で生きている間に言っておきたい、そういう勇気なんです。
まあ、その迫力が彼女に伝わったんでしょうね。でも、両思いになった途端にもっと悲惨な気持になるんです。
俺、この子といつまで話ができるんだろうか。
周囲に「おーい結婚するのかよー」とか、からかわれると、結婚可能になる将来が全く見えない状態であることを思い知らされて、真っ青になってしまったのでした。
俺にそんな将来があるのか?生存確率50%以下の俺に。
告白したこともオッケイされたことも大後悔。つきあいなんてうまくゆくわけないです。第一、中学、高校時代の女の子に生存不安を抱えて生きているなんて理解できないでしょう、ね。
一緒に下校する途中で猛烈な不安に襲われて、逃げて走ったなんてこともありました。それを翌日謝罪するんですけど、自分でもうまく説明なんてできない。それでも「いいよ」って、そういえば高校の時の彼女は言ってくれたんですねえ、後で思えば、オッケイしてくれたことといい、できた彼女だったんですね。感謝しなくちゃいけませんけど、当時まったく余裕なしですから。アホだったなあ、僕は。
猛烈な不安は登校途中とか、授業中に襲ってきました。そういう時僕は学校に行かず、もしくは早退して、近くの河原でぼーっとしていました。
とにかく河原で景色をぼーっと見ていました。日が暮れるまで。田舎だったので、人なんて通りません。ひとり風にゆれる草花、流れる雲、そんなものを見ていました。
危ない?
いえ、これ、「自分」に正直だったからこうやっただけなんですけど、正解だったんです。これは逃げでもなんでもないんです。いってみれば、正常な行動だったんです。
小学校の時から病院暮らしが長かった僕は、とても情報量の少ない環境で生きていたんです。それが徐々に体力が戻り、学校生活を始業から放課後まで送れるようになるにつれ、あまりの情報の量の多さについてゆけなくなっていたんです。
性能の低い計算機が高い負荷に耐えられず、熱暴走、システムダウン、ということだったんですね。
自然の中で、クールダウンと同時に、リアルタイムでは処理できなかったものを「自分の性能に見合った速度で」処理していたんですね。
当時はそこまで言語化できませんでしたけど、河原でぼーっとしているのはとても気持が良くて、年中河原で過ごしていました。
そこには「以前」も「将来」もなく「今の自分」だけがあり、「今ある自然」はそうした「今の自分」にとても優しかった。なんども河原で泣いていました。
あ、ちがうか(笑)
この歌は僕にはずっとテーマソングのように「自分」の中でなっていました。音楽が大きな存在になっていったのもこのころです。
なんかぼーっとして河原で寝ている「自分」が幸せで、そんな状態が好きになったんです。そんな日は夜のわた雲が包んでくれるような気持で眠れました。
「将来」はどこかに消えていました。