海辺の風景

海野さだゆきブログ

『奪われざるもの』清武英利 著

SONYが何度も繰り返した首切りを取材したノンフィクション。かつて「出る杭求む」とまで言って技術者を集めた「愉快なる工場」は膨張の果てにその資産を食い荒らされ、手っ取り早い「改革」である首切りを繰り返した。

 

同じ清武さんの山一の最期を描いた『しんがり』でも同じなのですけど、その組織を愛して最期まで尽くそうとするのは末端の人、もしくは傍流の人たちだったりするようです。そして、組織をどうとも思っていない人は「自分ファースト」でとにかく自分の取り分を稼ごうとするだけのようです。

 

それはワインバーグ先生のお父上の言葉を借り、なおかつ僕の言い回しで言えば「仕事をする能力の高い人と、会社に残る能力の高い人」の違いです。

 

ここに取材されている人は、もちろん取材をオッケイした人なので、ある程度大丈夫だった人「だけ」なのは著者の清武さんはよく承知していると思います。その後が思わしくなかった人は取材には応じないでしょう。それでも描こうとした理由は、現在追い詰められている人へ、まだ何か別の選択肢もあるのではないか?、ということと、組織や会社やらが奪えないものはあるはずだという応援でしょう。

 

僕も何回も転職をせざるを得なかった人生です。かなり危機的な状況になったこともあります。でも、なんとか生きていきました。色々な人やものに励まされてやっと乗り越えてきたと思います。

 

なんだか自分の首がやばいなあ、と感じたときには、あの職安通いでいつも聴いていた角松さんの「Alright」が心の中に響いてきます。