海辺の風景

海野さだゆきブログ

『蜜蜂と遠雷』恩田陸 著

どうも音楽ものって、納得できるものがない、もしくは少ないと思っていました。小説、まんがの分野での話です。まんがでは『30センチスター』がとっても良かったのが大発見でした。小説、ラノベではもちろん『脱兎リベンジ』すばらしいです。小説ではなんかなかなかなかったのですけど『羊と鋼の森』が良かったですね。

 

実際、楽器をやる、作曲をする人間からしてみても、読んで楽しかった作品です。で、この作品が評判が良いので期待してページをめくりました。

 

ピアノ・コンクールの話なんですね。亡き中村紘子さんの『チャイコフスキー ・コンクール ピアニストが聴く現代』がむちゃくちゃ面白かったのを覚えていたので、とても期待して読み進みました。

 

とてもキャラの立った登場人物たちの「濃い」人間性にぐいぐいと弾き込まれる感じで、どんどん読み進みました。いや面白い。

 

と、なんか僕に既視感が生じてきたのです。あれ?なんだろう、この「どっかでみたような」感じは。。。。

 

3次予選まで来たときに浮かびました!

 

これ『エースをねらえ!』だ。。。。。

 

天然の天才。その天才を育てた師匠はいまはもういない。。。。。そして、その天然の天才に触れることで、何人もが覚醒してゆく。。。。。

 

に、似ていませんか?

 

もちろん、強引、こじつけですけど、僕の言う「同心円構造」だという点も同じなのです、といいますか、そこが同じなんですね。

 

最初は違いを際立たせていた登場人物が、亡き師匠の導きで覚醒した天才と係わることで、次第に差異が吸収され、その天才を中心とした人間関係を形成して行く、っていう。

 

みーんなこの天然天才に係わることで、そっちを向いちゃいますよね。反発していた人も、仕舞にはファンになっちゃう。岡ひろみって、そういう存在でしたよね、みなさま。

 

と、いうわけで、いるじゃないですか、藤堂くんもお蝶夫人も蘭子も(笑)。

 

で、僕には最後のページに「岡、エースをねらえ」って書いてあるような気がしました。

 

あ、作品はもちろんそれ自体で楽しかったです。僕は『エースをねらえ!!』と重ねることでもっと楽しめました。はい。

ASUS Prime X470-PRO AMD Ryzen5 2600 Linux 4.17.0

4年ごとにメインシステムを更新してきました。ちょっと早いのですけど、AMDの新しいプロセッサが発売になったタイミングなのでやることにしました。

 

前回、還暦での更新かあ、、、と思っていました。なんかまだ遠い未来だったのです。それがあれよあれよと4年経過です。次回は64歳?冗談でなく生きているか分かりません。最後のメインマシンだから、後悔しないように、とは思っていましたけど、今の使い方だと全部最高レベルははっきり言って必要ないとは思いました。

 

マザーボードは最初はGigabiteだったですね。それからSupermicroばっかり続けていました。なにしろ安定性が段違いだったですね。WindowsマシンにためしにASUSマザーボードを使ってみましたら、結構安定しているのがわかったので、以来メインもWindowsマシンもASUSのマザーを使ってきました。

 

DECが好きだったので、DECなきあとはその流れをくんでいる現在のAMDプロセッサをメインにしています。もちろん、もう技術的には別物ですけどね。

 

で、Ryzen7は今の僕の使い方だと勿体ないなあ、と思いましてRyzen5にしました。これで十分ですね。

 

もうIntelMicrosoftに対する感情的な反発などはまったくありません。自分のやりたいことができればハードはなんでも良いのです。こだわりはもうありません。人生下り坂万歳。

 

組み立てはすぐに終りました。今回はCPUクーラー、ケースファン、ともにCryorigです。前回のWindowsマシン更新から使い始めましたが、ここのはやっぱり良いです。電源はニプロンがまだまだ使えますし、ニプロン以外は選択肢にないです。

 

で、あっさり起動したはよいのですけど、「ネットワーク構成ができません」だった。。。。。あれ?ifconfigみても、loopbackしかみえない。あれ?

 

さあ、困りました。今時はネットに繋がらないとなーんにもできません。最初はのんびり構えていたのですけど、段々と焦ってきました。モジュールはロードされているし、ドライバは正しい。。。。ん?なぜ?

 

カーネルを再コンパイル、、、、、だめ、、、、、あれ?何が、なにが足りないん?と道に迷ってしまいました。仕舞にはカーネルパニック。。。。。。。うううう、、、、何やっているのだ。おかしい。。。。

 

お昼には組み立て終っていたのに、夕方です。。。。。。まったく出口が見えません。。。。。

 

そこは長年の経験のたまもの。はっと気が付きました。ifconfigでみえるものがあるってことは、本当にネットに繋げられない「だけ」じゃないか。。。。。

 

あ。。。。

 

そうです。僕はrooterでMAC Addressによる制限をしていたのです。マシンが変ればMAC Addressは変るじゃないですか、当然、IP Aaddressと対応するMAC Addressは変る。。。。。

 

なーんてアホな見落としでしょうか。rooterで当該MAC Addressを登録したらあっさり。。。。。。

 

それから24時間回し続けていますが、安定した動作を続けています。Cryorigのファンはとても静か、クーラーも十二分な冷却をしています。

 

あと2年後にはHDDをSSDにするくらいかなあ、それまで生きていれば。。。

 

マザーもメモリも光っています。そこだけ「ブレードランナー」。人生最後の?メインマシンは活躍してくれそうです。

水の風景 抽象は具体的に具象は抽象的に

武満徹さんの「海へ」は海の英語「SEA」の表記をそのまま音階として扱っているとか、です。ちょっと記憶があやふやなのですけど、Sは「シ」Eは「ミ」Aは「ラ」としてその三つの音を主題にするというような方法です。

 

これは実は西洋音楽の「どまんなか」なのかもしれません。そもそも「ドレミファソラシド」がどうしてそういう風に呼ばれるようになったのかについて、「バプテスティマのヨハネ讃歌」のラテン語の歌詞をそのままあてはめたという説もあるくらいですから。

 

この方法を僕も採用したことがあります。もちろん、それだけでは曲は成り立ちません。とは言え、発想の一部分ではありますけど、結構強力です。

 

僕は以前、知人の出産祝いに曲を贈りました。出産とは何か、自分も立ち会い出産を経験しましたからか、ある時突然「出産とはドミナントモーション」だと思いつき、あわてて持っていた紙がレシートしかなかったので、そこに音譜を書きなぐったのでした。

 

出産時、なにかこう「波」があるそうです。陣痛には波があるんですね。それを「有義波高と有義波周期」とか3ー2ー5周期とか色々な説を拝借して、最初のモティーフを作りました。

 

これは「見立て」といってもよいかと思います。日本の文化のひとつですね。「借景」と言ってもよいかと思います。

 

表現することが具体的であれば抽象的に、抽象的ならば具体的に、そんな風にまとめてしまってよいかと思います。

水の風景 インストの場合の発想方法

インストの場合、僕はいくつかのルールを先に決めています。歌とは違いますが、インストもイメージはあくまで言葉が出発点になります。

 

それにしても、前段階はあります。例えば、「風」をインストにするとします。たぶん一番助けになるのは「動くイメージ」です。

 

風になびく草原

風にゆれる大きな樹の枝葉

風にゆれるたんぽぽの綿毛

 

と、いうような「動くイメージ」は、当然動きがリズムを持ちますし、動きの「幅」が音程のそれに呼応します。

 

「風になびく草原」は、「一度にある幅の草が同じ揺れを起こす」というところから、和音を動きを思いついてみたりします。

 

「風に揺れる大きな樹の枝葉」は、大きく揺れる木の幹や枝と細かく大きな音を立てる葉っぱの組合わせから、ゆったりしたリズムで細かい符割りの違う音程の音が覆い尽くすような量を歌う音楽を思いついたりします。

 

「風に揺れるたんぽぽの綿毛」は、軸の動きと、ランダムに飛び散る綿毛の対照が思い浮かびますので、普通の五度の低音の動きに分数和音、それもテンションコード、それが細かく入る、そうした音楽を思い浮かんだりします。

 

水の風景 イメージの方向性

風景を描くことは決まりました。で、次に大きく考えるのは「歌なのかインストなのか」です。

 

たぶん、ロックとかフォークとかJポップとかになじんだ人はそういう発想はないかもしれませんけど、僕らがよく聴く音楽って、歌かインストかですよね。

 

最初からどちらかに決めるのは不自由じゃないですか?

 

僕の場合、歌もインストも作ってきました。その分かれ目は何かは、はっきりしています。

 

言葉にしたいならば歌、言葉にできないのならばインストです。

 

そういえば、「言葉にできない」って「歌」がありますね。言葉にできないことを「歌」という言葉にするっていう、とてもじゃないですけど、僕にはできないハイレベルな作品です、はい。

 

僕は言葉にできない場合はインストを選択します。あ、もちろん、言葉についてとても才能があって、言葉による飛躍が大きい、という方は歌の方がよいですよね。そういう歌、あります。

 

オリジナルがなかったので

www.youtube.comこれが僕には「言葉による飛躍が大きい」作品のナンバーワンです。具体的ともいえる言葉が具象を遥かに超えています。素晴らしいですよね、この「歌詞」。

 

僕はそうした作詞の才能が皆無なので、イメージが複雑といいますか、大きく飛躍するときにはインストにしています。

 

ドノバンの「リバーソング」

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この「歌」も忘れられないですね。佐々木昭一郎さんの作品でも使用されました。俳句のように短い歌詞、繰り返されるモティーフ。歌のようなインストのような、素晴らしい作品です。こういうのも、ありです。

 

ただ、今回凡才の僕はインストに絞ります。

 

 

水の風景 停滞する作曲

「水の風景」という組曲を構想してはや10年以上。まったく作業が進んでいません。やれ時間がないだの、気持が落ち着かないだの、とまあ理由をつけていますけど、本当はイメージが固まっていないからなのです。

 

ライトノベル風に作曲入門を扱った本でも、とにかくイメージをどれだけ追い込めるかみたいなことが書いてありました。そうなんです。あれやろう、これやろうと「思いつく」ことは簡単なのですけど、そこで思い浮かんだことをしっかりと細部まで「想像」できるかは「創造」そのものにかかわります。

 

例えば、和音からはじめて、それを分散和音にして、それを再構成してみる、ま、要するに順序を変えて、そこにスケール音を足したり、引いたりして作る、というような場合でも、最初にイメージが固まっていないと、音の響きだけに引き摺られて、つながりやすい音の連続に結果して、なーんかつまらない、と(僕は)なってしまいます。

 

宮川彬良さんは「メロディって一筆書みたいに書くものであって、いまよく耳にするのは僕にはフレーズであって、メロディじゃないんだよね」って、いつかのラジオ番組、脚本家の岡田さんの「今宵ロックバーで」で言っていました。そうなんです。

 

よいメロディって譜面にしてなんか綺麗な「眺め」になると思うのです。視覚的にも聴覚的にも綺麗。これがイメージの「実体化」なのだと思うのです。はっきりしていないと、ここは細かく割るのか、どうするのかとかでいきなり行き詰まります。

 

というわけで、まずは「水のイメージ」固めから始めます。

 

水というと、すぐにラベルの「水の戯れ」「エステ荘の噴水」とか浮かびますか?。

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僕は武満さんの「雨の樹」です。

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歌では沢山ありますけど、ここは例えば滝廉太郎「花」。歌詞はご存じの通り。で、僕は小林啓子さんの「やさしい雨の歌」というアルバム「かなしみごっこ」1972年に入っていた歌なんですけど。

 

あまだれが ひとりぼっち ひとりぼっち

 

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っていう歌詞で始まります。「花」は風景、「やさしい雨の歌」は心象風景と言えます。ラベルと武満さんのそれぞれも、僕には風景と心象風景だと思えます。

 

おおざっぱですが、僕にとって曲はそのどちらかなのです。今回はどっち方向なのか、まずはそれを決めます。

 

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もともとこれが「水の風景」作曲のきっかけになったイメージのひとつなのです。基本、風景を描く、という方向性でやってゆくことにします。

 

 

『世界一孤独な日本のオジサン』岡本純子 著

ツイッターでフォローしている方の記事がこのところ全くないので、不思議に思っていたら、なんとブロックされていました。時々リプライをしていたくらいで、このところは何にもなかったのに、と思いましたが、同時に「やっぱり僕もいつのまにかおれおれおやじになっていて、えらそーだったのかもしれない」とも思いました。

 

僕は「男は基本えばり」だと思っていました。それは、そういう姿勢が嫌いだし、その傾向にある僕自身に注意を払っていました、という意味です。でも、所詮自己チェックです。受け取った方にしてみれば余計なお世話かなあ、と思いつつ話を止めていないことも度々あります。

 

うーん、こんなんじゃ、孤立まっしぐらだよ、と思ってはや20年。出口は見えません。

 

さて、件の本は、内外のデータ、エピソードを大量に提示しつつ、オジサンたちの孤独への警鐘を鳴らし続けています。もう読み続けるのがいやになるくらいです。刺さりまくりです。思い当たる事ばかり。

 

新書形式ですし、警鐘という姿勢から、言い切りの文体になっていると思います。そのくらい事態はせっぱ詰まっているのです。書評をみると、その言い切りに引っ掛かって、「必ずしもそうではない」という感想がありますが、そういう感想があること自体、もうこの本の警鐘の意味を重たくしています。

 

著者も「必ずしもそうではない」ことは重々承知なのです。実際そう書いてあります。しかし、そうしたあいまいな言葉でお茶を濁している場合ではない、という危機感があるから、データを山と積み上げて、僕たちオジサンを説得しているのです。

 

そうなので、読後に「かならずしもそうではない」という感想が出てくるのはまさに「人の話を聞いていない」オジサンの姿勢が出てしまっているということだと思うのです。

 

僕自身、バンドが突然空中分解してから、まったく次の手が打てていません。仕事場と家庭以外の場所を作ることができていません。なにしろ、そのバンドの解散も、女性3、男性2のメンバー構成でしたが、その女性3人から練習後突然解散を言い渡されたのです。事前に何の相談もなく、バンドの立ち上げから幾多のトラブルもなんとか乗り越えてきたのに、と呆然でした。

 

いやあ、オジサン孤立の典型的な事例です。

 

「まったく楽しめなくなってしまっているから」とはその時のメンバーの言葉ですが、これがヒントでした。僕はやはり、演奏のクオリティを上げる事に中心があったのですけど、彼女たちはバンドという集まりでのコミュニケイションすることに中心があったのです。

 

確かに。バンドを楽しむという姿勢は僕にもありましたけど、その部分が少なかった故に彼女たちの不満は増大していったのでしょう。バンドのリーダーは女性でしたし、僕はサブに徹して、いたつもりだったのですけど、。。。。。

 

なんか突然離婚を宣言された夫状態で、僕はショックでバンドを新たに立ち上げるとか、メンバーに入るとかいう気持がなくなってしまいました。

 

典型的な濡れ落ち葉オジサンじゃんかよー、と自分でも思いました。色々気を遣ったんだよ、とか、離婚されたオジサンがつぶやきそうなことは全部つぶやきました。

 

で、気が付けば、バンド活動がやりにくい勤務形態の仕事をやってます。おいおい。。。。。音楽以外でどこで人のつながりを作れるんだよ、お前は!と自分に突っ込みを入れているわけです。

 

まずは、この孤立状態を自分でしっかり認識することからですね。。。「カネ」ないなあ、「コネ」ないなあ、「ネタ」はあるかも。。。。

 

さあ、孤立オジサンの明日はどっちだ。