海辺の風景

海野さだゆきブログ

『かがみの孤城』辻村深月 著、同 アニメ映画 原 恵一 監督

原監督の新作が上映開始とデジタルチケット販売のサイトで知りました。原作があるものなので早速原作を読み始めました。小説は抜群の面白さ、深さがあり、ページをめくる手が止りませんでした。そして、映画は原作を丁寧になぞっていました。

 

小説はかなりの評価を受け、セールス的にも成功したようですが、僕はそうした事は読後に知りましたので、余計な情報に触れずに接することができて良かったと思います。

 

主人公の状況の厳しさはすぐに知れました。鏡の向こう側へ行ってからの言動は「軽い」のですね。当たり前ですよね、この年齢ですから。しかし、老人の僕はそこが引っ掛かるのでした。いけませんね、知らない、経験値が低いからこそ起こせる行動があるのだと思えないとは、、、駄目ですね。

 

話は謎が謎を呼ぶ展開ですが、よーく考えるとちっとも謎ではないのですね。経験値だけは山積みした老人と言動が違うのはあったり前ですし、なによりも

 

そこに正解はない

 

それを一番知っているのは老人ではないですか。。やれやれ。正解がない、あり得ない中で読者である僕もあがけば良いのです。

 

後半は怒涛の展開。重い荷物は下ろすことはできない結末ですね。「ああすっきりした」と思った読者はいないでしょう。

 

さて、主人公は最後に仲間の過去をみることになります。しかし、どうしてお互い、お互いの話をあまりしなかったのでしょうか。。。。辛いから。それもあるでしょう。僕はこう、思うのです。

 

知らない相手に伝わるように話すことができるのは、話す言葉が社会化されている必要があるのです。社会経験値が低い彼らは自分の状況や過去を「社会化」された言葉で語ることはできないのです。

 

それが彼らの一番の問題なのです。「おとうさん、おかあさん」という言葉でも、学童や生徒の年齢が言う場合と、我々のような子供を育て終わった人間が言うのとでは、意味合いが違います。違いすぎます。ましてや両親とも亡くなった僕のような老人では。

 

なんでも話していいんだよ

 

でもどういう「言葉」で?

 

 

さて、原監督はこの作品にどう向き合ったのでしょうか。。。。

 

小説は記述トリックのようなところがあります。絵にしてしまうことで失われることは回避できないでしょう。。。。

 

映画は地元のシネコン、公開初日初回で観ました。僕を含めて6人。10代と見える女性、20代と見える女性、5才くらいのお嬢さんとそのご両親。もう、「仲間」ですよ、ね。

 

正直申し上げると「絵が薄い」と思いました。これは劇的なるものから意図的に離れて物語を淡々と描くという方針なのでしょう、と。。。。。間違いなく萌え絵ではないですね。城は外見も内装もそれほど質感を感じません。

 

絵ではない?物語そのもので駆動してゆくのかなあ、、、

 

ここは、小説を先に読み、かなりの感動を受けた人間の感想ですね。読まずに映画を観た方はまた違う印象を受けるでしょう。

 

僕は「淡々」と言いました。ですが、最後に、本当に最後に原監督は映画の力を見せました。

 

主人公がひとり、「前に進む」ところです。ここは素晴らしかった。ぐんぐんと前進するそういう絵の力がそこにはありました。

 

監督、そうですよね、小説と向き合って、僕らが受け取ったものは、それですよね。

 

ありがとうございました。