海辺の風景

海野さだゆきブログ

『星明かりグラフィクス』山本和音 著

関東は埼玉にある美術大学を舞台にした青春劇です。とあるウエブサイトでお勧めされていたので、即読みました。

 

主人公はふたり、思春期前期の「事件」が原因で、と本人が納得しているだけなのですけどね、潔癖性になった女の子と、その才能をなんとか世に出す役割をやりたい、その「業績」で自分を世に押し出したい、つまりコネクションで世渡りしたいという女の子二人です。

 

面白いです。絵は的確かつ適度な「ゆがみ」を得てとても心に入って行きますし、ストーリーは極めて客観的で時間軸の「ゆがみ」がないのです。

 

あ、「絵のゆがみ」って、何?ってことですけど、音楽をやる人間からすればそれは「ノイズ」なんですよね。エフェクターって言うべきでしょうか。

 

コマを観てください。きれいな、そして動きのある絵を描ける作者は、なぜか画面のあちこちに「意味不明」な、それこそ消ゴムのカス?って思うような、点や線を描き込んでいるんです。これ、消し忘れやミスではないです。

 

どうしても、それを描かないと絵が治まらないんですね。そこが実に絵を描くヒトの世界認識なんです。と、僕は思うのです。

 

だって、音楽やる人間で、音を歪ませないと落ち着かないって、絶対わかるでしょ。なんか、おさまりがつかないんですよ。ゆがまないと。

 

これはどういうことかと言えば、たぶん、こういうことだと思うのです。

 

例えば、僕らは屋外で上を見上げれば、「空」って言葉で「それ」を認識しますよね、でも、でも絵を描く人は「空」って言葉の純粋さに違和感を、とても強い違和感を、もっと言えば「嫌悪感」を感じるんです、なので、どうしてもそこに「空」って言葉で綺麗にならされてしまう「何者か」を描き込みたいのです。

 

「言葉」って、伝達のための、思考のための「便宜」だって、絵を描く人はどうしても、そこを突っ込みたくなるんです、たぶん。ちがうかなあ、、、、音楽をやる僕からすればそうとしか見えないんですけど、、、、どうでしょう?

 

主人公の「潔癖性」は、「名状しがたきもの」が認識されたがゆえの、「語れないものが見える」ということなんだろうなあ、って思うのです。

 

彼女が自室で見たのは、「お父さん」という言葉で簡単に片付けられない「何か」だったのです。言葉で処理できないので、彼女は脳の動きを制御できなくなったのです。

 

そう、言葉は脳の最大の「発明」なんです。脳は要するに「省エネ」なので、、事柄をいちいち詳しく調べたりしないのです。その省エネが生んだのが言葉。だって「お父さん」の一言で、思考は停止します、感覚器も停止させられますからね。

 

その「お父さん」で済まされたひとつの生命の持つ、色々な側面を「消化」できないから、彼女は「嘔吐」するわけです。

 

石森先生の偉大なる発明。コマの空白に浮遊する「なにか」。

 

美術、って、脳が省エネで切り捨てた世界の片鱗を見せてくれるんですよね。僕はそう思います。

 

で、その彼女の特異さを「才能」、いえ「才能=社会的な価値」とみるもうひとりの女の子は、案外「言葉」を持っていないのですね。見えてしまう彼女を表現するする言葉を持っていないのですね。

 

はっきり言って、これは傑作です。もう第一巻だけで、傑作です。僕はこれを読んでラッキーでした。はい。