ゲーム一巡。これはきつい。二巡目には新しいものを見ることができるが、これがきつい。アニメの不可解さなど、このゲームの前には綿菓子だ。
そのきついゲームについては
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/byplace/lain.html
「普通の人が、そこまでつっこんで考えたらヤバいと思って踏み込まない領域に入り込んでいくのだ。だから、プレイヤー自らの手で自らを追い詰めていくことに なりかねない。そうなるかどうかはあくまでプレイヤーとプレイの仕方に依存するのだが、ともかく、その危険はわきまえておくべきではないか。少なくとも私 は、このロジックと既に自分の頭に玲音のデータが保存されてしまったという事実に、寒いものを感じた。」
この意見に全面的に賛成だ。これでも心理学を専攻した人間である。
「「serial experiments lain」は、武器を振り回すことを楽しんでいるゲームのように思えてしまう。ゲームは人を癒すこともできるが、もしかすると、その逆も可能なのではないか。だが、そんな地平に到達してしまってよいのだろうか?」
ゲームの地平を開拓しようとしていた時期だとは思う。それゆえに「やれることはやってみよう」はおっけいだったと思う。大抵のひとはこのゲームに辿り付きもしなかったと思う。やってみて「クソゲー」と投げ出したひとも多かったと思う。
が、面白い、興味をそそられる、そう思った人もいただろう。たかがゲーム。しかし、実際この世界にはまんがじゃあるまいし、みたいな事が実際に起こっているのは確かなのだ。
ゲームはミステリーを意図して作られた、と思う。サイコホラーという言い方でも良いだろう。が、その方向性はかのアメリカ軍の発明、DDDと通底する。というか、まったく同じだ。今では古典だろうが、
The CIA Document of Human Manipulation: Kubark Counterintelligence Interrogation Manual
まあ、なんと現在入手可能。
実践的には旧日本軍が大得意だったそうだ。物理的な拷問よりもはるかに効果的だったそうだ。逆の表現が正しいかもしれない。どんな訓練を受けた屈強な者もあっけなく落ちる、そうだ。
ひとはロジックで動いている。そのロジックの「根拠」は実はかなりあやうい。最後は記憶頼りになる場面で、その記憶が「書き換え」でもされていたら、おそらく一発だ。認知症と呼ばれる人たちが全員記憶に障害をきたしていることを思えば理解できるだろうか。
記憶が記録に依存してしまっている状況で、その記録が「書き換え」られていた一発でひとはおかしくなってゆく。認知症とは記憶に頼れない「記録の地獄」である、「記憶の地獄」なのである。
僕は30年ちかく日記を「書いていた」。その日記はすべて燃やした。以来こういう電子的な日記のようなものは残しているが、これは書き換えが容易だ。ノートに鉛筆で書いた日記は書き換えが難しい。読み返すと驚く。自分がそんなことを考え、実行し、記録していたなんて、と思うことがたくさんあった。
ゲームにうんざりするほど出てくる「日記」は電子データであり、書き換えられている。その書き換えがひとを追い詰めて行く。歴史では日記は第一級の資料だそうだが、電子データとなった日記にそんな地位は与えられない。
さ、プレイステーション、遅れてデビューした僕のゲーム旅はもうちょっとだけ続く。ゲームが面白かった時代だったのはよーくわかる。僕は当時まったく関係なく生きていたので、実に新鮮だ。