海辺の風景

海野さだゆきブログ

『世界一孤独な日本のオジサン』岡本純子 著

ツイッターでフォローしている方の記事がこのところ全くないので、不思議に思っていたら、なんとブロックされていました。時々リプライをしていたくらいで、このところは何にもなかったのに、と思いましたが、同時に「やっぱり僕もいつのまにかおれおれおやじになっていて、えらそーだったのかもしれない」とも思いました。

 

僕は「男は基本えばり」だと思っていました。それは、そういう姿勢が嫌いだし、その傾向にある僕自身に注意を払っていました、という意味です。でも、所詮自己チェックです。受け取った方にしてみれば余計なお世話かなあ、と思いつつ話を止めていないことも度々あります。

 

うーん、こんなんじゃ、孤立まっしぐらだよ、と思ってはや20年。出口は見えません。

 

さて、件の本は、内外のデータ、エピソードを大量に提示しつつ、オジサンたちの孤独への警鐘を鳴らし続けています。もう読み続けるのがいやになるくらいです。刺さりまくりです。思い当たる事ばかり。

 

新書形式ですし、警鐘という姿勢から、言い切りの文体になっていると思います。そのくらい事態はせっぱ詰まっているのです。書評をみると、その言い切りに引っ掛かって、「必ずしもそうではない」という感想がありますが、そういう感想があること自体、もうこの本の警鐘の意味を重たくしています。

 

著者も「必ずしもそうではない」ことは重々承知なのです。実際そう書いてあります。しかし、そうしたあいまいな言葉でお茶を濁している場合ではない、という危機感があるから、データを山と積み上げて、僕たちオジサンを説得しているのです。

 

そうなので、読後に「かならずしもそうではない」という感想が出てくるのはまさに「人の話を聞いていない」オジサンの姿勢が出てしまっているということだと思うのです。

 

僕自身、バンドが突然空中分解してから、まったく次の手が打てていません。仕事場と家庭以外の場所を作ることができていません。なにしろ、そのバンドの解散も、女性3、男性2のメンバー構成でしたが、その女性3人から練習後突然解散を言い渡されたのです。事前に何の相談もなく、バンドの立ち上げから幾多のトラブルもなんとか乗り越えてきたのに、と呆然でした。

 

いやあ、オジサン孤立の典型的な事例です。

 

「まったく楽しめなくなってしまっているから」とはその時のメンバーの言葉ですが、これがヒントでした。僕はやはり、演奏のクオリティを上げる事に中心があったのですけど、彼女たちはバンドという集まりでのコミュニケイションすることに中心があったのです。

 

確かに。バンドを楽しむという姿勢は僕にもありましたけど、その部分が少なかった故に彼女たちの不満は増大していったのでしょう。バンドのリーダーは女性でしたし、僕はサブに徹して、いたつもりだったのですけど、。。。。。

 

なんか突然離婚を宣言された夫状態で、僕はショックでバンドを新たに立ち上げるとか、メンバーに入るとかいう気持がなくなってしまいました。

 

典型的な濡れ落ち葉オジサンじゃんかよー、と自分でも思いました。色々気を遣ったんだよ、とか、離婚されたオジサンがつぶやきそうなことは全部つぶやきました。

 

で、気が付けば、バンド活動がやりにくい勤務形態の仕事をやってます。おいおい。。。。。音楽以外でどこで人のつながりを作れるんだよ、お前は!と自分に突っ込みを入れているわけです。

 

まずは、この孤立状態を自分でしっかり認識することからですね。。。「カネ」ないなあ、「コネ」ないなあ、「ネタ」はあるかも。。。。

 

さあ、孤立オジサンの明日はどっちだ。

東海道最終回 四日目 つまり最終日

沿線で大きなイベントがあるらしく、臨時列車がでていました。そのおかげで予定よりも随分と早く町を出発することになりました。夕方前にはもう自宅に戻るのです。

 

近江鉄道からJR草津線へ。車窓を眺めていると三雲駅。あっ、ここはいつも休みをとっていた場所です。いつのまにか駅舎が建て替えられてぴかぴかです。なんか駅前でザックを下ろしてのんびり休憩っていう感じではなくなったかも。

 

車窓から東海道を目で追います。もうあそこを歩くことはないのかなあ、と思うと寂しくなります。でも、何についても終りはあるのです。やりきって終ることもあるでしょうし、やり残したなあという状態で終ることもあるのです。どっちでも終りには変りはありません。

 

あれよあれよと、京都です。流石に週末土曜日、すごい人出です。京都だからなあ、とにしんそばを頂きました。『それ町』で「ミシンそば」ってギャグがありましたね。

 

おみやげに赤福を買い足し、もちろんディリーも。新幹線は満員。すごいなあ、日本。ディリーはでかでかと藤波制球難再発ですと。昨日はそんなに悪い投球じゃなかったと思うのに、阪神だと大騒ぎになってしまうんだよなあ。。。。。

 

新幹線は本当に「目的に忠実」です。じゃあ、僕の「東海道」はなんだったのでしょう。京都が「目的」だったら新幹線ですよね。歩きが「目的」だったら近所で事足ります。

 

今まで東海道歩きについては色々理由を言ってきました。

 

1、新しさと古さが交差する遺跡

2、歩く速さで生きることを思い出す

3、先祖が関西だから遺伝子が呼ぶ(笑)

4、踏破をえらそーに自慢できる

 

自ら最終回と決めて、のんびり一番好きな場所を歩いたあとでは

 

理由なんて正直わからないなあ、気持よいのはたしかなんだけど

 

微妙にうねる道とか、ちょっと古い静かな風景とか、好きなんだよなあ、、、、でも車びゅんびゅんの国道歩きも案外と好きなんだよね。。。。って結局分からない。それでいいや。

 

今後も思い立ったら権太坂は何度も行くだろうし、妻はまた小夜の中山行きたいって言っているし、完全に消滅はしないと思いますけど、大きな区切りって、なんの区切りだったのかなあ。。。

 

あ、情報発信だったのかもしれないです。歩き始めた頃は本当に東海道歩きの情報が少なかったんです。手書きの地図だとか、写真とか、そういうものがないと、うまく旧道をたどれなかったのです。

 

でも、いまはそれこそGPSのデータとしてリアルタイムで位置確認できますし、ルートも確かめられます。僕はガーミンのデータをネットに上げていたりもしましたけど、そうした個人の営みとしての情報提供はもう不要なんです。

 

地元の方々の尽力で道標も整備されていますし。まず迷わないです。ま、難しいところもありますけど、以前と比べたら問題なんてないくらいです。

 

やっぱり、どこかのだれかの東海道歩きの役に立ちたいって気持はあったんですよね。それが歩きの楽しさを倍増させていたと思います。それはもうとっくに必要ではなくなっていました。

 

本来の自分の楽しみだけって、いうところに僕も戻ったんですね。より身軽に東海道歩きも楽しめそうです。あんまり回数は行けないでしょうけど。

 

めでたし、めでたしっ。

東海道最終回 三日目

昨日は「県道新城」でおしまいだったので、今日はその続きです。

 

記憶というものが何を優先しているのかは分からないですが、こうもはっきりと覚えているのは不思議な感じです。あの時の自分が映像としてもよみがえるような、その自分を見ているような。

 

この辺りではもうへとへと、足は痛いし、汗でどろどろ。地図を見ながら、あとどのくらいで到着できるか、なんてことが頭に浮かんでいましたね。

 

そんな思いをしてまでなぜ東海道を歩き続けたのでしょう、僕は。

 

風は光り、水を入れている田んぼではかわずが喜びの大合唱。今日も快晴です。前回はガリガリ君を食べてばかりいたなあ。とにかく暑かった。今回はファイントラックのハイテク衣類のおかげで不快感がまったくありません。こうも違うものなのか、と。

 

アップダウンがあって、道は宿場に入ります。今日は水口のお祭りです。家々にちょうちんが下げられています。地元の方々があちらこちら、道ばたでおしゃべりをしています。あ、男の人が裃をつけています。なんか本格的なんですね、って当たり前ですよね。お祭りは地元のひとのものですから。

 

曳山はすでに格納庫から出ています。道に鉄輪のあとが。どこにいったのでしょう?結局宿場ではみかけませんでした。例の三叉路を今回は真ん中を通ります。

 

街並って観光的には昔のまま残っていて欲しいものですが、そこで暮している人はいつだって「今」を生きているわけですから、不便さをなくし、発展してゆくなかで、「昔」を更新して行くのは当然です。

 

一時期住んでいた埼玉県の川越市旧市街は、いまでこそ「蔵作りの街」として観光客を集めていますけど、僕がいたころ、地元では古い建物は更新されつつありました。大きな看板でその古さを隠しているような街並でした。

 

同級生の親の世代の何人かが街の未来をその古いものに見いだし、周囲を説得していったのです。基本的によそ者だった僕は、それは正しい方向だと思いました。でも実際そこに住んでいる同級生たちは生活上の不便も感じていたわけです。

 

古いものに未来を、発展と保存を、なんて簡単じゃないですね。大野安之さんの『ゆめのかよいじ』(旧バージョン)ではないですが、「げ、アメリカン」な風景にも何かが宿り始めるのかもしれません。江戸時代の街並だって、その当時の最先端だったわけですからね。

 

水口石橋で今日の東海道歩きはおしまい。そして、それは僕の東海道最終回です。

 

宿に戻る途中、「近江ちゃんぽん」というお店でお昼をとりました。丁度「サラめし」時間。近くで働いている人たちで賑わっていました。子連れのママ友さんたちも。そう、よそ者からすると、地方って人がいないように見えるんですけど、よそ者が勝手に期待するような場所にいないだけの話なんですよね。

 

ちゃんぽんは関東者の僕からすると甘い不思議な味ですが、おいしく頂きました。そう、この「甘さ」なんですけど、この辺りは大阪のそれとも京都のそれとも違うように思いました。

 

宿に戻って、かさばる衣類を郵送し、身軽になるべく梱包し、本町の郵便局へ。途中にぎやかな声。子供達のおみこし行列です。わあ、可愛らしい。川越の時も思いましたけど、伝統的なお祭りのある街に澄んでいる子供たちがうらやましかったなあ。よそ者の僕は「旧市街」の住人じゃなかったので。。。当時は参加できなかったのです。当時は。。。

 

郵便局のおねえさんたちの地元言葉がなんかとっても愛らしかったなあ。京都とも大阪ともちがう、そう、この辺りの食べ物の「甘さ」に通じるものを感じます。

 

静かに暮てゆく水口宿の街。僕の旅は終ろうとしています。

 

東海道最終回 二日目

初日、田村神社のバス停で待っている時、東海道歩きはもう10回分は歩いた、というご夫婦と一緒になりました。世の中すごい人がいます。

すんごくガタガタ揺れるバスで、ものの20分くらいで水口宿。宿は水口センチュリーホテル。宿に入る前に、すぐ近くのショッピングセンターで夕食の買い物をします。地元の人がふつうに食べているものを食べたいのです。それにスーパーのお惣菜、お弁当は結構レベル高いのです。地元の味付けの傾向もわかりますし。

必ず食べるのは、サラダですが、「一日に必要な半分」をうたうのをふたつ。やはり、このくらい食べると翌日の調子が良いのです。

そして地酒。この辺り酒蔵がいくつもあるのです。本当は無濾過の生酒を飲みたいところなんですけど。

さて、二日目。近くのバス停から田村神社まで戻ります。ここには道の駅があります。「忍者米」やら近江茶、紅茶などをドバドバ買って、宅配便で送って貰いました。少し早いお昼はうどん、でもこれはただのうどんではありませんよ。是非現地で。とてもおいしかった。

と、ディサービスのご一行様が到着。にわかに賑やかになりました。全員女性。ですよね。「男はバカで早死に」で良いのです。

僕はここから水口宿までの道が東海道で一番好きなのです。だから東海道最終回はここしかない!のです。国道歩きがなく、人通りも車もほとんどない、静かな、緑やお茶や草、風の匂いがする道なのです。昔と変わらないのではないかなあ、と思うのです。

ここはゆっくり踏みしめるように歩くところです。

地元の方々のご尽力でこの風景は保たれています。しかし、日本のどこでもそうなように、主を失った家が朽ち始めています。観光では街並みは、この街道の風情は維持できません。東海道でも空き地が太陽光パネルで埋まるのが目につくようになりました。地元の企業が小さくても利益を生み、その利益で地元が駆動する、そうした仕組みを作り出して行く未来を祈るばかりです。

調子が良く、予定より歩いてしまいました。残りは明日。

 

 

 

東海道最終回 初日

還暦目前、時間もお金もないのです。人生の後片付けは東海道歩きも例外ではありません。機会があれば残りを歩きますが、ここで一区切りつけようと思いました。

場所は迷わず土山宿から水口宿です。東海道で一番好きな場所なのです。

17日深夜バスで出発。午前4時30分、雨の近鉄四日市に到着。まだ夜に包まれた街をJR四日市まで歩きます。始発電車には時間があります。装備を整理、壊れている膝にしっかりテーピングします。

朝の静かな空気の中、ディーゼルのワンマンカーは鈴鹿に向かって走り出します。汚れでちょっと曇る車窓で東海道を探して辿ります。いつものことですが、何年も前のことなのに、歩いた光景がよみがえります。

鈴鹿の山はけむって、細かい雨。旧道の街並みはまだ眠っています。って、朝食が調達できません。結局駅まで戻ってさらに国道を進んでコンビニでようやく。やれやれ、でも今回はまったく急がない旅です。これもあり、あれもあり、全部楽しみます。

歩けばつい昨日のように全てを思い出します。冷たく風が吹き下ろす峠への道。雪が降るなか歩いた時もありました。

10年くらいでは何も変わらない道。変わるのは人間である僕。水、また水。道は静かです。

峠は晴れていました。燈籠を見上げながらおにぎりを食べます。通りすぎる雲が時折陰を運び時間は緩やかに過ぎます。

もしかしたら、僕は死ぬ直前にこの光る風を思い出すのかもしれません。

 

人生の後片付け

CDを売り払った。一時は2000枚はあったと思うけど、随分と売り払ったつもりでも250枚はあった。残ったのは10枚位。どうしても残すというものではなく、売り物ではないから、とかの理由で残っただけだ。売却額が10万円を越えたのにはちょっと驚いた。

 

ずっとこのところ持ち物の整理を続けている。理由は簡単、今後いまの広さのアパートには住めないことが分かっているからだ。部屋は大幅に小さくなる。多くは持って行けないのだ。

 

CDを売り払って意外な「効果」があった。以前より音楽を真剣に聴いているのだ。そう、音楽たちはデータとして手元には残っている。たぶん、僕はCDを「持っている」ことで何かが止ってしまっていたのだ。

 

聴いていると、案外ボンヤリと聴いていたことが分かった。なんだよ、俺、ちゃんと聴いていなかったじゃないか、と意外な自分の実際が分かったのも収穫だ。

 

SpotifyってLinux用があったのには驚いた。早速入れてみた。『ヒットの崩壊』は読んだけど、じゃあストリームサービスを使ってみようかとは思わなかった。Linuxに対応しているというので初めて興味が出た。

 

知っているものを検索して聴くという使い方は、確かにすぐに天井が見えた。なにしろ聴きたいものはCDとして所有していたから、今でもデータとして残っている。劣化した音質で聴く必要はない。

 

やっぱりラジオみたいな役割を求められているのだろう、プレイリストという「目利き」たちが選曲した番組みたいなものがある。だよね。ただ、それも僕には物足りない。NHK-FMみたいな本当になんでもある状態には程遠いから。出会いの範囲が狭い。

 

例えば日曜日なんて、午前中から夕方までNHK-FMを聴いているけど、「名演奏ライブラリー」「吉木りさのタミウタ」「トーキングウィズ松尾堂」「きらクラ」「洋楽グロリアスディ」「ワールドロックナウ」「サカナクション山口一郎Night Fishing Radio」という具合いだ。この出会いの幅は正直すごい。

 

でも、Spotifyは楽しいね。低音質でも十分だと思う。音質追求は疲れるからね。音より音楽を楽しむってのは大事。年間12000円払おうかなあ。と思える。

 

ものがなくなって中身と真剣に付き合う姿勢を取り戻したのは良いことだと思う。

 

まだまだ「後片付け」するものは沢山ある。自分を見つめ直すというより、直面させられ考えさせられるのもなかなか楽しい。

 

『どるから』石井和義 原作 龍造寺慶 脚本 ハナムラ 漫画

男女入れ替わり物は沢山あります。かわいい女の子の中身がオッサンというものもあります。しかし、この場合オッサンがあの石井館長なのです。いやあ、こんな濃厚な中身、ありえません(笑)

 

そして、その難題に挑んだのはハナムラさん。そう、美人編集者とのやりとりをせつなくもどこかおかしく、哀しく描いたあの『ハナムラさんじゅっさい』(僕、ちゃんと購入してます、はい)のハナムラさんです。

 

「この男は実在する」って、『空手バカ一代』じゃないですか。。。。

 

しかしまあ、館長、いきなり自分を死なせてしまって、いいんですか、、、、、。これがギャグとかフィクションとか、思えない、、、「まだ空手を裏切ったままやんか」といういまわの際の言葉はグサリと刺さります。

 

しかし、まあ、立ったまま死んでしまうなんて、『侍ジャイアンツ』ですか。かと思うと「なんじゃこりゃあ」の絶叫って、松田優作ですか。。。。。。

 

そうです、あちこちにオールドファンを泣かせるオマージュがちりばめてあります。いいなあ、心地好いです。

 

館長のキャラクタゆえでしょうか、ギャグがあちこちにありますが、爆笑した直後に厳しい現実描写が突きつけられ、また、その事態への館長のまっすぐな挑戦的姿勢にグッと来ます。

 

いやまあ、流石というか、女子高生の体になっても、館長、エロの微塵もありません。気になるのは「格闘家としての筋肉の付き方」なんですから。筋肉(笑)。

 

この高低差激し過ぎる物語を絵にするのは滅茶苦茶難しいと思います。ギャグはギャグ、シリアスはシリアス、きっちり描けるハナムラさんは流石です。

 

ハナムラさんじゅっさい』で、なかなか浮上できない状況をありのままに描いていたハナムラさん、ちょっと心配だったんです。あのまま終っちゃうのかなあ、、、これだけ力があるんだから、チャンスはあるよなあ、、、と、、、

 

良かったですね、ハナムラさん。独特の色っぽい線は健在、微妙な表情、難しい心理場面を描ける筆力、十分発揮されています。

 

「世にでない才能などない」とは故米長永世棋聖の言葉ですが、絶対そうです。

 

話は自殺してしまった女子高生、追い詰められ食い詰めの格闘家、どん底の出口はあるのか?「明日はどっちだ」です。

 

梶原先生の『空手バカ一代』を始め、格闘技漫画好き、再び立ち上がろうとする人間の話が好き、そんな人に読んで欲しい、絶対ぜったいのお勧めです。