作品を語っています、って、鑑賞前に情報を得ようとする人って、何を求めているんでしょうね、どんなに詳細に語ったところで所詮は文字ですから、映像とは別物ですから、あんまり参考にはなりません。押井監督じゃないですけど、映画を観ることと語ることは別物だ、です。
岡田監督、脚本を含めて、の作品を全部みたわけではないですけど、ずっと同じテーマがあるように思います。
ひとつは、地方の若者の閉塞感つまりは大人たちとの距離、ひとつは地方に残る「見えないもの」とそこに現在いる者との関係。
そしてそれらふたつを結ぶ「イノセント」な存在。だったはず。。。。
冒頭、登場人物紹介、若者たち、で分かるのは彼らのいらだちと閉塞感。それにくさびを打ち込む爆発らしき現象と、なんとその爆発を修復する現象を彼らは目撃する。
それ以降なのか、神隠し現象が生じる。
この冒頭、どうも世界の成り立ちがよく分かりませんでした。あとで分かるのですけど、この世界の成り立ちそのものが作品のテーマなんですね。
閉ざされた街、というと僕は別役実さんの『街と飛行船』をすぐに思い出します。簡単に説明しますと、ある日ある街に汽車に乗ってセールスマンが降り立ちます。なんとその街の住人はこの街から出られなくなったと言うのです。憶測が憶測を呼び、セールスマンが来たことが切っ掛けなのかという疑いまで出る始末。
隔離された人々はそこで「疑似家族」を作ります。そこではお互いの「思い出」が奇妙に入れ子構造になって成立し、そこに「生活」が産み出されるのです。
うん?
そんな時、街の上空に飛行船が現れます。街のひとたちは大混乱に陥ります。自分達は病気で、あの飛行船は薬を持ってきたのだ、救いなのだ、とセールスマンだった男は人々を扇動します。
あれ?
それに対して、飛行船がどうであれ、もう自分達に行く場所はない、ここで生活を営み続けるだけが残されるのだ、と反論する人が出ています。
あれ?
結果飛行船は高射砲で撃墜、その時、なにかキラキラした雪のようなものが街に舞い散り降り注ぎます。
あれ?
僕はこの作品をなんとテレビの人形劇で初体験したのでした。『アッポしましまグー』というひとみ座が演じた番組です。強烈でした。もう50年以上前なのに未だに映像が目に浮ぶくらいです。
『街と飛行船』はコロナ禍でパンデミックを予言した作品だと何故か引っ張り出されてました。そっちも僕にはびっくりでした(笑)。
僕は岡田さんの作品に演劇を感じてきました。舞台でやったら面白いのではと思っていました。今回の作品もそうだと思いました。いわゆる異化効果は映像作品では難しいですが、映像ならではのトリックを駆使して、観客に切り込むことはできるとは思います。岡田さんが『街と飛行船』を知っているかは分かりませんけど。
さて、作品に戻りましょう。
今回、イノセントな存在には何も力を与えられていません。言葉も不自由。文字通りのイノセントなのかもしれません。しかし、「どこからか外部からやってきた」というそれ自体が街と住人には力となるわけです。が、生活の安寧のために幽閉されています。
うーん。。。。。
主人公たちの街はいわば「あの頃はよかったね」という大人たちの共同幻想
だと思うのです。それゆえに変らないことが最優先なのでしょう。それは主人公たち若い人たちに痛みさえ感じさせないくらいの圧力があるのですね。思考停止どころか感覚麻痺。。。。。辛いですね。
イノセントな存在は「外来者」ゆえに、それにひびを入れる可能性があるから閉じ込めて活動させないのですが、成長は止められないわけです。その成長が確実に「変らない」を「変える」。それは「内部」の人間にはどうしようもない。なにしろ「外部」なので。。。
その力学から共同幻想は現実の時間、「外部の時間を持つ存在の成長」によって崩壊の道を進み始めます。
それを止める方法として、「外部存在を外部に返す」と「内部のエネルギーを高めて内部を存続させる」を同時進行させます。
うーーーーーーん。。。。。
このあたり僕は岡田監督の気持、考えの大きな揺らぎを感じるのです。結局内部のあれやこれや、最終的に自主操業でエネルギーを保つにせよ「男性主導」なんですね。。。。。。。
「内部」に幽閉された女性は外部に「送り返される」だけなんですね。。。。。。
そして残るのは共同幻想という「内部」と「外部」の断絶。。。。情緒的な感想は残りますが、「内部」から「外部」に送り出された、たぶん「内部」の若い人たちの希望を託されて、、、「イノセント」な存在は自分を閉じ込めていた場所を廃墟として訪れるだけなんですね。。。。。
地方女子の閉塞感に関しては僕は目の前にそういう存在がいるので、今回の映画についても話を聞きました。つまり僕の妻ですが、彼女は
「私はあそこの資源では自分を生かせないと思った」
とずっと言っていました。問題は「資源」なんです。高校を卒業したら地元の中小に二三年勤めて「嫁に行く」しかない、、、、、、そんなお馴染コースでは私は生きられないってことだそうです。
ヒロインがイノセントな存在に対して恋愛の勝利を高らかに宣言するのは要するに「嫁に行く」が勝利宣言なんですかね、、、、、、
イノセントな存在が最後に廃墟となった製鉄所を訪れます。タクシードライバーが廃墟ブームがあったけどすぐにポシャったと言っていますが、ご当地アニメで人を呼ぼうとしていた作品に関わった岡田監督の自虐でしょうか?
意地の悪い見方だとは思いますが、なんか観客を突き放すような作品だと僕はどうしても感じてしまいました。問題提起にしては諦めが見えます。安直な解決を打ち出さないのは誠実ですが、廃墟で感傷的になって終りでは、観ている方はおいてけぼりになってしまいます。
でも、僕は岡田監督のあがきをとても好意的に受け止めています。だって、他の誰がこの問題「地方の若者の閉塞感」に向き合っているというのでしょうか。
異世界なんかに行けないのですからね。