海辺の風景

海野さだゆきブログ

「クダンの話をしましょうか」全2巻 内山靖二郎著 朝未 イラスト MF文庫J

クダンという謎の美少女を狂言回しに展開する短編連作。僕は即座に楳図さんの「おろち」を思い出しました。

 

さて、この大分とかわいらしくて、親しみが持てる現代のおろちさんは、「おねえさん」と同じく出目などすべて謎です。わかるのは彼女が「鵺」を探していること、その発見が彼女を何かしらの呪縛から解放するらしいことです。

 

テーマになっているのは「子供でいること、いられなくなること」だと思います。クダンはその様子からして見た目の年齢ではないと思います。もしかして何百年と生きているのかもしれないです、「おねえさん」のおろち同様。彼女はこどものまま忘れられてゆくだけの存在です。その忘れられてしまうという事が何らかの罰なのかどうかも、まったくわかりませんが、百年の孤独を生きているのであろう彼女はとてもせつない存在です。

 

「こども」というのは、良く言われているように近代になって「発見された」ものです。それまでは神様の年齢を過ぎれば「小さい大人」です。ましてや学校という生産と切り放されたところに何年も居続けるなんていう状況はこの日本でもつい最近始まった、歴史的に見れば特殊なことです。

 

連絡の最後の手形の話は痛々しいですけど、僕はこどもたちが社会から隔離されている、疎外されている、と思った方がよいと思います。子供時代を忘れるのを感傷的にとらえるのは僕は実はあまり好きではないです。社会にでた方が助けが沢山ある、こどもだけの、こどもだらけの世界には助けはほとんどないからです。地域社会が機能しなくなってますますそうなっていると思います。

 

学校の問題とは、「こども」を助けられない仕組みになっているというところで捉えた方がよいとも思っています。教育、給食、進路指導、すべて年齢の若いひとたちを救ってきました。しかし、それが行き渡った時点で、つまり生存に余裕が出てきた時点で、近代の大人が突き当たる問題に年齢の若い人も突き当たるようになったのですけど、それを救う仕組みが、すくなくとも学校にはない、ということだと思います。

 

クダンと出会ったこどもたちが提出している問題はすべて近代の大人の問題です。

 

最後、こどもである、イノセントであろうとすることを止めたらどうなのか、とキリン、これも謎の存在ですけど、に言われたクダンは表情を強張らせて拒否します。

 

各巻とも話がうまくつながって、奥行きを出しています。なかなかよかったのではないでしょうか。