ゲームが成熟期を迎えているのではないのかなあ、と遅れてきたゲーム好き老人は思うのです。で、もともとはそのゲームのノベル化みたいなのがお得意だったライトノベルも同じ現象が起きているように思います。
ゲームの「設定」自体に自己言及しているみたいな「設定」のゲームが多いように思います。どうでしょう?僕はそれほど多くのゲームをしていませんけど、直感的に思うのです。
先日発売日に購入、早速はまりました『NieR:Automata』って、二次元シューティングゲームみたいに始まって、途中セーブできないんです。そうですよね、シューティングゲームってセーブと無縁の存在ですよね、でも、RPGみたいなことを期待してプレイしはじめる現代のプレイヤーは「セーブできねえ?クソゲー!」っておもっちゃうわけで、僕も最初は「おいおい」って思いましたけど、
シューテイングゲームでセーブって思う方がおかしい。
そう、ステージをクリア、それしかないのです。このゲームの「設定」をゲームに採り入れたことを楽しめるかどうか、ユーザが問われているわけです。最初の二次元シューティングゲームっぽい画面を見たら、「お、そう来たかい」って楽しまないと。。。。
ゲームに言及しているゲーム。
まんがは随分と前にそういう「現象」が起こりました。トキワ荘世代ですでにそういう作品があります。『天才バカボン』なんてそういう自己言及、再帰的定義をよくやっていたと思います。
アニメでも唐の昔に、です。幻に終った押井ルパンの「ルパンはいなかった」なんて、そういうことでしょうし、年をとらないはずのキャラクタを「加齢」させた、なんてこともそうでしょう。
そもそもの「設定」を問う。おもしろい試みですけど、下手をすれば「で、だからなんだっての?」になりそうでもあります。
で、この作品のように、ゲームの設定、その影響を受けたライトノベルの設定を現実に下ろしてみる、というのも、同じ試みのひとつだと思います。
さて、例えば「魔法少女の終り」はすでに魔法使いサリーでも描かれていたような気がしますが、僕にとってはマミが鮮やかにそれを描いていたように思います。
この作品はそれをどう描いたのでしょうか。アニメが、例えばロボットものが「リアルロボットもの」を経て、なかなかに描かれにくいものになり、本当に「ただの兵器」みたいになっている現状をみるに、ゲーム、そしてそこから派生したライトノベルたちにおいて「現実からの跳躍」は難しいものになっているのかなあ、とか。。。つらつら思うわけです。
ねーよ帝国も現実に侵食され、「翔べない」状態に陥るのでしょうか。仮想空間が現実化するとか、異世界が現実に侵入するとかいう「設定」のゲーム、ライトノベルが多いですけど、僕にはそうした仮想空間が現実に侵食されて、境界線を失いつつある、と見えるのです。それは実は想像力の低下であり、現実感の喪失であり、あんまりよい傾向だとは思わないのですが。。。
巨乳の美少女が40才、50才、60才になったことを描く作家、作品が出てくるのでしょうか?それとも「永遠に17才」という「学園祭前日」に永劫回帰するのでしょうか。
はて。。。。