後編は原作者がストーリーにも手を入れて、まんがとは違う展開になると予告されていました。ですが、観た感じ大筋は変わらないと思います。
実はちょっと困りました。僕はこの作品を道筋だって論じることができるほどの何かを持っていないみたいなのです。
演奏家の時代
そういう言葉があります。パガニーニやリストのようにそれまでとはけた違いの技術を持った人たちの登場で、作曲の表現の幅が大きく広がったと言えます。マンガで言えば劇画の時代がそれでしょう。
作曲家は演奏家の高い技術を前提とした更なる自由度を得たと同様に、原作者の「文芸的」表現を作画担当者は絵に定着してきました。僕の経験ですと、週刊誌で見開きで新宿西口の精密な俯瞰を見せられた時ですね、本当に驚きました。
その後、それこそみなもとさんなど、印刷がつぶれるのを分かっていながらその密度の絵をわざわざ描いたりしました。それだけではありません。コマ割りの革命的な発展で「時空の歪み」みたいな、およそ絵では無理だと思えた事柄が説得力を持っていったのですね。
これは、そもそも現代マンガの「発明者」手塚治虫さんがマンガもアニメも「発明」したおかげでしょう。
リストやパガニーニも素晴らしい「作曲家」でもありました。それと同様なのです。
さて、件の作品に戻ります。これだけ「動いている」絵を動かす、、、、、、どうなるのでしょう、、、、と僕は思ったのです。
アニメーションはもちろん圧巻でした。それを目にしながら、僕は段々となにかがちらちらと見えるような気がしてきました。「動いている絵」が動けば動くほど、なにか動かないものがそこに見えている気がしたのです。
映画館を出て青空を仰ぎ見て、自転車を走らせて道を戻って、、、「それ」は次第に言葉になってゆきました。
二重性
「侵略者」の彼は、亡くなった青年の「中で」地球人類のように存在しますし、凰蘭は違う世界でもとの世界の人間として存在している、、、、のですよね、、、、
そういう挑戦だったのかも知れません。
僕は日本伝統の「見立て」を思い出していました。いや、「借景」の方があたっているかもしれませんね。
まんがが「発明」だった時、その表現方法もまた「発明」でした。もうまんがを「発明」することはできませんが、表現方法を極めることで新たな「発明」を促す、そう、「演奏家の時代」のように、、、、。
優れた演奏家がまた、すぐれた作曲家でもあった。。。。
作者がなぜあえて二重性に挑んだのかは分かりませんし、そもそも僕の「見立て」が間違っているかもしれません。でも、僕にはなにか、「すでに終わったもの」を「被る」ことで「引き継ぐ」意思がそこにあるような気がしてならなかったのです。
僕の自分語りなのかもしれません。