親から虐待されているらしき女の子の一人称場面から始まります。次に自分の中に三人の人格がいて、「彼ら」が交代に現実場面に対応するという少年の一人称、というべきなんでしょう、場面に移ります。
このふたりが出会い、別れ、そして再会します。いじめられていた状況を鮮やかに逆転してくれた少年を、女の子は忘れていませんでした。
彼女は少年に「多重人格ごっこ」を提案します、再び。
家庭でも学校でも居場所がなかった幼い彼女は、少年の「多重人格」に、現実をうまく生きる、やりすごすかもしれませんけど、知恵を見いだしたんですね。
そして、大きくなって再会した彼女は、まったく自己の在り方が変っていない少年をうれしく「思い出した」のでしょう。
なんだよ、都合よく人格を使い分けて、本体が傷付かないように逃げ回っているイタイ野郎が主人公かよ、、、って、まあ、そういう風に読めなくもないのですけど、僕はこの面倒くさい少年の在り方にそういういやな感じは受けなかったのです。
なにしろ三人の人格があれこれ相談しながらなので、読むのは結構難儀します。すいすい読み進められませんので「ライト」ではないでしょう。
女の子は少年は「芝居」をしていると見ているのでしょうか?そこはわかりません。例によって「ねーよ帝国主義」ですから、女の子の心理描写はそれほど掘り下げられていません。
常識的に言えば、少年は場面場面で「態度を変えている」わけです。ただ、そうした「態度の違い」をやっているひとは受動的に捉えていると思うのです。「あいつにはこうして対応」という感じですね。
それを少し能動的に捉えると少年みたいな認識になるのではないのかなあ、とは思いました。
「人によって態度変えるなよ」っていうのもわかりますけど、そこを「人を変える」という風に認識操作というのはシビアなやり方だな、でも相手にするのはやっかいだろうなあ、そのくらいディフェンスが堅くないとだめな状況なのかと。
つまり少女も、少年も「本体救出のために出現した別人格」が必要なほど、追い詰められていたのかもしれません。それもいくつもの別人格が。。。。幾重にも防御を張り巡らす必要があったのかと。
想像上の友人に頼ったり、神様に頼ったり、宇宙人に頼ったり、それもアリでしょうし、僕だってそういう子供時代でした。状況が厳しいと、そうした想像上の頼れる人はひとりではまかないきれない、というのもよくわかります。
少年と少女がどうなるのか、分かりません。でも、まあ、どのみち、ふたりともそのままではいられないでしょうから。でも、その時はそのとき。なんとかするでしょう。
ただ、「鍵穴から世界を覗き見る」にはなってほしくないなあ、と。それは原理主義への、テロへの道ですから。