海辺の風景

海野さだゆきブログ

『空声』こがわみさき

読みはじめは、吹部(学校の部活動、吹奏学部)にあって、ほかのメンバーよりも演奏力があるがゆえに、浮いてしまっている女の子のエピソードです。彼女は自分よりも技術的に下手くそな部員の演奏に、やる気が削がれている様子です。

 

そう、読みはじめは、これは「短編集」なのかな、と思います。しかーし、これは「短編連作」なのでした。そのつながりのよさ、そして円環の閉じ方、、、、、

 

はっきり言います。これはすごい。大傑作です。絶対のおすすめです。こがわさん、すばらしい。

 

やる気がなくなりかけている女の子の「ひとりで吹いている」ところに「乱入」したのは、小学生の男の子。彼は小太鼓。どうもうまくいっていないので、ひとり練習に来たところに、女の子の演奏を聞いて、思わずジャムセッション

 

ふたりは、言葉を交わしません。音だけで会話。ううううう、これ、文字にすると、なんか、だいなしになってしまいます、、、、でも文字でないと伝わりませんよね。この「音だけで会話」があまりにウマイので、この辺りで私は幸せになってしまいました。

 

そこにまた突然の「乱入」。泣きながら歌う女の子の登場。ううう、まるでミュージカルをみているようです。すばらしい。

 

読み進んだ時、私は「はっ」と我に還りました。え?我にかえった?つまり我を忘れていたんですね。驚きました。そんな自分を忘れ、没入して作品を読んだ、なんて事はずっと、それこそ数十年以上なかった、すくなくともまったく思い出せません。

 

いつのまにか、私は作品を「頭で理解する」ようになっていたのでしょう。なにかに我を忘れ、没頭するようなことは、私にはですが、社会で生き抜くためには諦め、捨てないといけないものだったのでしょう。

 

ある時、確かに「このままこの世界に浸っていては前に進めない」といろいろなものを処分し、意図的に避けるようにしましたから。

 

しかし、老齢になり、そうしたゴワゴワした服を身につける必要がなくなったのは確かです。私は再び「ぼーってしてて良い」ところに立っています。

 

責任も義務もほとんどないし、だれも期待もしていないし、実は他人への興味もなくなっているし、正直に言えば、自分だけしかいない世界にいる感じが生活のなかにどんどん増えています。

 

そうかあ、私はあの頃に戻って大丈夫になったわけだ。「無用」もいいじゃん。ははは。

 

さて、最後の2つの話。読み進むうちに私の中に沸きあがる世界がありました。

 

これ、忘れもしない1972年。入院中、誰もいなくなった夕暮れの待合室にあったボロボロの「別冊マーガレット」。そこに掲載されていた山田ミネコさんの『緑の目』。

 

私が初めて出会った少女マンガであり、以後その世界にどっぷりとつかる切っ掛けとなった作品。こんな、世界があったんだ。と。姉にねだって、毎週「マーガレット」を買ってきてもらいました。病室しか世界のなかった私に世界を見せてくれた作品たち。

 

もともと私は石ノ森先生の大ファンでした。あとで知ったのですけど、山田ミネコさんも先生のファンだったそうですね。道理で。。。。『緑の目』を読んだときに私は石ノ森先生の『奇人クラブ』を思い出しましたが、ワケあってのことですね。

 

日常は、もうひとつの世界と重なりあい、別の色彩、違う音、肌触りを見せてくれました。夢とは違うんです。「もうひとつの現実」というべきでしょうね。

 

高齢になって再会するとは思いませんでしたけど、なんか、やったぜ、ラッキーっていう気持です。

 

今、レイブラッドベリーとか読まれているのかなあ。。。また読みたくなったなあ。というより、こがわさん、ネットで作品発表しているんですねえ。それがまたよい作品ばっかりで。じじいはうれしいですよ、本当に。