海辺の風景

海野さだゆきブログ

『はしっぽ花星』全2巻 こがわみさき 著

僕が1972年に発見した少女マンガは、こういうものでした。すなわち、

 

小さい波動のおりなすレゾナンス。

 

一読で虜になってしまったのは、風景描写の中に心象風景を表現する石ノ森先生が大好きだったからだろうとおもいます。

 

少年漫画は互いの違いを拡大して行くことで、それこそ力づくで、その異差を運動エネルギーに変えて物語を駆動して行くものでした。そこには敵と味方だけです。敵を倒すために主人公は力を増大させますが、敵はそれに対応して更に強力になってゆく、その繰り返しなのです。

 

しかし、大きくすそ野を広げた少年漫画はそうした単純な力学ではなく動いて行く世界を描く作家を何人も産み出しました。石ノ森先生もそうでした。

 

そして、『巨人の星』です。主人公の最大のライバル、花形満は主人公の姉に星飛雄馬への深い共感を告白します。味方を自認する者たちよりも敵であるはずの花形の方がずっと、理解も共感も大きいという、人間と人間との関係の在り方は、当時「根性で敵を倒す」などという理解とは無縁の広く大きく深い世界を読者である少年に開示したと思います。

 

ああ、これは大きなメロディが動くものではない、小さな半音たちが織り成す複雑な、美しくもあり汚くもあり、深くもなく、短く、すぐに消えてしまうあの、レゾナンスの感じだ、、、、と1972年冬、誰もいない病院の待合室に読み捨てられていた少女マンガ雑誌を広げていた車いすの僕は、その響きが照明の落ちた夕方の窓から聞こえるように思えたのでした。

 

言いそびれてしまった事。渡しそびれてしまった何か。記憶の底にある、そこだけがあやふやな思い出。人の形をしたやさしいもの。

 

そう、確かに「おもいでのひとつぶ」になってしまっているのかもしれない。でも、そのちいさな一粒はかすかですが、半音たちが奏でるレゾナンスを今でも、そうです、50年ちかく経過した今も響かせています。

 

襟をまくるいたづらをした若葉がきゅんとする。その半音階。僕はそれを知っています。40年前に聴えたその響きは、すぐに人の輪郭を持ち始め、空気の流れが渦を巻き、色が次第に浮き上がり、鮮やかに、その襟元、むすんだ髪、ぎこちない笑顔、そうした半音たちが、テリーライリーに調律された純音階のミニマムミュージックとなって星空にちらばってゆくのです。

 

人生がわかるよ、とか、思想が理解できるよとかの、大きな共感、同意では、なく「うん、それわかるよ」という小さな響き。ちょっとした違いが生じさせる半音たちのレゾナンス。

 

そう、僕は少女マンガのおかげで、そうした「なんでもない」小さな半音たちの響きを50年たってもわすれずに思い出せる人間になることができました。