昨日NHKでRCサクセションのアルバム「シングルマン」のマスターテープを当時の関係者が会して聞き直す、という番組を見ました。名盤誕生秘話というこの企画は、ユーミンの「ひこうき雲」から始まりました。多数のレコーディングをしてきたミュージシャンたちは、録音を聞き直す、ということはまずしない、というのは知っていました。なので、そこから出る感想、感慨はとても、それこそ感慨深いものでした。
今回、しかしながら今回、バンドのメンバーは誰も参加しませんでした。清志郎さんは故人となっています。そして、ふたりのメンバーの不参加は「参加を辞退」と一言で片付けられていました。
思うに、メンバーが拒否した時点でこの番組は成立しないのではと。その不参加を番組スタッフはどう考えたのでしょうか。
このアルバム、参加したスタッフには大きな「傷」を残していました。アレンジャーの星勝さん、プロデューサの多賀さん、どちらも録音当時にメンバーの反発を食らっていたのです。おまけに最終ミックスダウンはお二人の不在のもとに決行されてしまったからです。お二人は終始固い表情でした。いえ、はっきり不快そうでした。
スタッフの件での救いは、ミキサーの茂木さんが、メンバーと正面から向き合って、彼らの望むことを実現させようと奮闘努力し、一度はミキサーを辞めようとまで思い詰めた彼が、ただのエンジニアから音楽の分かるエンジニアにまで成長したことです。
スタッフと決裂してまでしたレコーディング。しかし、プロモーションもむなしく全く売れず、あえなく廃盤。それがメンバーに残したものは大きな傷だったと思います。その後ギターの破廉さんが脱退。。。。
僕も再発アルバムを入手した口です。でも、いまアルバムは手元にありません。レコードもCDも。
番組を見ていて、参加したスタッフたちの苦い表情を見ていて、僕は当時に引き戻されました。木造二階だてのアパート、炊事場トイレ共同風呂なし、の四畳半にこれでもかとまんがとレコードを詰め込み、引き籠もっていた僕。
何も見つからなかった訳ではなかったのです。みつけた宝物と、社会、世間との折り合いが僕はつけられなかったのです。どうにもこうにも、ぐしゃぐしゃになってゆく自分。逃げるしかなかったのです。
甲州街道はもう秋なのさ
聴きながら泣いていたことがよみがえりました。もう反射的です。番組を見ながら涙はとまりませんでした。もう30年以上経つなんて関係ないよ、と、何かが言うのです。
折り合いをつけられない。当時のRC、そして僕は、一言で言えばそういう状態でした。ただ、それだけだと、単に「個人的な問題」でしょう。しかし、それは実は主な問題ではなかった、そう思います。
メンバーにとっては未だに困難なもの、それが僕にはよく分かる気がしました。やはり「時代の趨勢」なんです。一言で言えます。
70年代前半までは、あらゆる表現の場で、「難解なものをおもしろがる観客」がいました。映画、演劇、絵画、文学、そして音楽。それは格好つけでそういうポーズをとっていたのでないのです。
わからないということに感動できる、ということです。僕の言葉で言えば「感動的にわからない」。ブルースリーではないですけど、「感じろ」です。なにかに圧倒されてもおっけいだったのです。
たぶん、時代は混沌としていたのです。何がどうなるのか、誰もわからなかったのです。え?なにそれ?。話せば長いですけど、簡単に言います。例は松本隆の歌詞です。
歌謡曲の畑に入っていった松本さんは自信満々でした。必ず成功するという確信があった様子です。彼がテーマにしたのは「都会と地方(田舎)」でした。
地方=「それまでのアジア的な日本」
都会=「アメリカンな生活空間」
例えば「木綿のハンカチーフ」は、もうすでにタイトルからしてこの二項対立です。恋人は都会の消費生活に完全に埋没してしまいます。対する田舎の女の子は、まるで手古奈のように、雨月物語の浅茅が宿のように「待つ女」、古典的な、母なるアジア的な女性です。
消費生活に踊る、つまりアメリカンな大量生産大量消費に狂躁する都会で男はアジア的な女性性を「忘れて」ゆくのです。それに対して、女性は「木綿」を要求します。これは何?
つまり「化繊」ではない、ということなのでしょう。色鮮やかに染められた化繊のハンカチーフを彼女は拒否するんですね。
さて、話はRCに戻ります。このアルバムには待つ女、湿り気を帯びるような、つまり感情性豊かな女性はひとりも出てきません。大きな春子ちゃんは乾いています。車に乗っている彼女も、決して彼を慰めたりしません。彼女も孤独で乾いています。
都市生活で何もかもが乾いて行くのです。人の死もドライにシステム的に処理されます。人の死なのに、出てくるのは市役所です。乾ききっています。
1曲目から物欲を皮肉っています。そう、もの、もの、もの、の世の中になってしまって、個人的な感情を歌う歌がまったくもって誰にも響かない、ということを彼らは知ってしまったのですね。
「氷の世界」は情緒たっぷりじゃないか?いえ、いえ、氷を触ったことがありますか?吸い付きますよね。低温は人から水分を奪い取るのです。氷の世界は乾燥しきった世界なのです。ひとは氷の世界で水分、つまり感情を完全に奪い取られてしまうのです。
もうこんなに遠くまで。。。
すでに時代は、秋でした。終わったんです。情緒を共有する歌が人びとの口に耳にあった時代は。それが70年代後半なんです。
新しい時代を宣言したような「ひこうき雲」は死んだ少女の歌です。そう、「いつのまにか大人になった」時代がやってきたのです。いつ大人に?たぶん、じゃらじゃらと「大人アイテム」を購入できた時点で、です。
RCの「共感する歌」は死んだのです。そういう死んだ歌が並ぶこのアルバムは、アルバムジャケットが物語るように「心理的投影」でしか届かない共感する歌だったのです。
新しい時代は「煽り」「盛り上げ」「いけいけ」「あげあげ」の80年代になりました。
なんだよ、しけた歌じゃ盛り上がらないだろう。
はいはい、そうでした。僕は当時こんな歌詞を書きました。
誰も気にとめない
生きることの意味など
せめて一日の休みがあればいいのさ
僕もすっかり時代に取り残され、苦しい80年代を生きることになりました。RCは、メンバーを代え、ロックンロールバンドとして派手に活躍し始めました。煽って盛り上げて。