その1のつづき
「アクセルの踏み違い」に関しては、私はこう考えています。動作に関してあまりに単純に捕らえていると。
- 足を伸す(アクセルを踏んでいるってことですね)
- 足を伸すのを止める
- 足を縮める(膝を曲げるね)
- 足を縮めるのを止める
- 足を左方向に移動させる
- 足を左方向に移動させるのを止める
- 足を伸す(ブレーキを踏むってことですね)
動作ってこういうものじゃないでしょうか。私は消化酵素の働きの知識しかありませんけど、生物のシステムって、なべてこういう感じではないかと。
アクセルーブレーキ、なんて2段階ではないです。
で、運動指導の経験から直感すると、調査研究したわけではないので、2、とか4、とか「なにかを止める」という動作の制御が、どうも高齢になるとできなくなる、と。
この「止める」って、たぶん、「ブレーキ」みたいなものが働くって、思う方がいらっしゃると思うのですけど、全部の動作、全部の事象に対応する「ブレーキ」なんてものは存在しません。たぶん。
ある動作を止める、ということと、その動作の反対動作をする、ということは別の事柄なんです。
具体的に言えば、アクセルを「踏む」、のではなく「足を伸す」なので、「足を伸す」のを止めても、アクセルの位置は変わらないのです。アクセルはバネの力でアクセルオフに向かう力がありますが、足という重量物、下手をすると10キログラム、を押し戻すだけのパワーはないです。たぶん。経験からして。
だって、そんなに反発力があるアクセルを「足を伸して」押し付けるのは大変だから、アクセルは軽い、少なくとも足を押し戻すだけのパワーはないです。
私が15年間乗っていた、いや運転していたドイツのオペル、オメガ3000(マニュアルだよ)は国産に比べて、アクセルの反発力は相当です。測定しませんけど。渋滞では死にそうになります。
国産車は、その後レンタカーばっかり運転してきましたが、羽のように軽いです。はい。意識していないと、アクセルが戻ってしまうなんてことはオメガ3000では普通でしたが、国産車ではそういう経験は私にはありません。
国産車だと、「足を伸すのを止める」は、アクセルペダルが「戻る」ことを意味しないと思います。
「踏んで」は「いない」が「踏んだ状態」では「ある」
別の動作に移るためには、現在やっている動作を「止める」ことが必須なんですけど、「どうにも止まらない」のです。
「ブレーキを踏む」までに4行程ある。
それをコンマ数秒で行う。それが「ブレーキを踏む」です。
問題解決は、常に問題の定義にあります。
筋力に関して言えば、腕回りの筋力は加齢での落ちは少ないですが、足回りはてきめんに落ちて行きます。この「筋力」は「反応時間と反応力」だと言ってよいでしょう。
ま、いずれにせよ、ご本人たちには「他人事」でしょう。
さて、今日のお題は「ぼっち」(笑)
世界一孤独な日本のオジサン
岡本純子さんの警告書でさえ、読者の書評を読んでわかるように、他人事です。
なにしろ、「男の基本はエバリ」だからでしょう。これは私の長年の自説です。つまり、私も当てはまっている、典型だ、ということです。
実力勝負ではなく、威張っている奴が勝ち抜く、という不思議なシステムをこの社会はずっと採用してきました。と思うんです、はい。
「なんだー、その言い方は」
これ、無能な奴の定番せりふです。「言い方」ですよ。これ、私は「ツンデレ」だと思っています。
「もうちょっと優しく言ってくれれば、すなおに、うん、って言えるの」
って、きもーーーーー(笑)。しかしながら、私の経験したすべてのおっさんはこうでしたけど、何か?(笑)
こんな奴、裸の王様決定。。。。。ですよね。
自分から「負けました」って言えないよなあ、この手のオッサン。
私、その昔、奨励会に在席している小学校5年生に毎日コテンパンにされていたことがあります。はい、将棋です。私は毎日「負けました」って頭下げてました。いやあ、感動的に強いんで、まったく屈辱とか感じませんでした。
それどころか、なんでこんなへたっぴーと指すのかを聞いたところ「おもしろい将棋を指す」って真面目に言われたのです。確かに定跡から離れての「泥沼」をいつでも意識していました。はい、米長先生のファンでしたから。
って、これが「自慢」なんですよ。
結局他人とは「自慢話」だけ。これでは仲間も友人もできませんよね。奥様に愛想つかれるのも当然の成り行きでしょう。
で、私、その意味で「孤独」です。間違いなく「ぼっち」です。他人の自慢話を聞くのもうんざりですし、自分の話が自慢しかないのも自分でウンザリなんです。
ただ、幸いにして、私はやりたいことが全部やれた、という自覚があります。もちろん単独ではやれないことばかりでした。優秀な仲間、優秀な友のおかげで、高いところまで連れていってもらえたのです。
なので、なんか今更、新しく始めようって気持が湧かないのです。結構満足しています。あれも、これもやり遂げられてラッキーな人生をおくれたのだから、もういいかなあ、と。
これ、自慢かなあ、でも自力ではないですよ、連れていったもらっただけですから。ほんと、ラッキー。
なので、現在まちがいなく「ぼっち」ですが、死ぬまでの貯金をもらった感じがしているところでもあって、あんまり問題を感じていません。
って、これが、「終わっているジジイ」の実相なんでしょう。私はこの状態から抜け出るとは想像できませんので、このまま死ぬのでしょう。
孤独なオッサンの自己分析(笑)