「おじいちゃんもう一度最期の戦い」は、かなりの傑作でした。と言っても、あれを面白いと思う人は少ないでしょうけど。すごい作家だと思います。ライトノベル的に言えば「残念な人」、彼らを描くのは簡単そうですけど、つまりあざ笑えばよいと思うかもしれないですけど、全く間違いです。すごい精神力が必要です。ほとんど修験道です。
福島の原子力発電所が「爆発」して、日本はおろか世界中に放射能汚染物質を「放出」したことを、この国はすでに忘れています。なかったことにすれば日常は安泰ですから。それは僕も同じです。
しかし、放射能汚染物質を放出「された側」はどうでしょう?そんなに簡単に忘れて、なかったことなんかにしてくれるのでしょうか?
否。断然、否。
僕は前の戦争を個人的な理由で、かなり調べています。その過程で、日本に侵略された側が日本人など一人残らず死んでしまえばよい、と思っていただろう事を引き受ける、という態度を学びました。
放射性物質を撒き散らされた側からみて、今日の日本はどう見えるのか、そのくらいの想像力を持ちませんか?
戸梶さんは、その命題をひとりで背負って、精神的にぶっ倒れるだろうことを覚悟してこの小説を書き始めた、そう思います。世界中から援助が届く中、ただひとり、ふつーに「回りの迷惑」を考察した戸梶さんを僕は心から尊敬します。
計画停電、もうお忘れですか?、のさなか、ガソリンスタンドに長蛇の列。あれは何だったのでしょう?。でも、そんななか、偏西風に乗って汚染物質が撒き散らされる側はどう思ったのかなんて、僕も考えませんでした。灯の消えた駅前を家族で見に行きました。愚息にはこの光景を忘れるな、なんて言ってましたけど、周辺諸国が、日本が撒き散らす放射性汚染物質をどう思うかなんて考えもしませんでした。
戸梶さんは正しいです。
本日、今も汚染物質をどうにもできない、つまり地球にばらまいている、ということを僕は思っていません。それを引き受けて、小説世界で、それでも日本を生き延びさせる思考実験なんて、想像もできません。
精神的なエネルギー膨大に必要です。ま、いいかって、なっちゃいます。戸梶さんは、想像ですけど、行けるところまで行く、という覚悟で書き始めたと思います。
この重圧に僕はここまで耐えられません。小説としての出来は、確かにイマイチでしょう。でも、誰が、日本人の誰があそこまで精神力を保てます?
主人公は「めでたく」妻と再会しますが、それってめでたいのでしょうか?
周囲の目を気にするのが日本人ですか?本当にそうですか?周囲(日本国内限定)の目を気にするのが日本人。ではないですか?
放射能汚染物質を今日も「放出中」の日本を、周囲の国の住人になったつもりで見てみてください。どう見えます?僕らはもう見えなくなっているのではないでしょうか。戸梶さんの「明日なき行進」のトライであるこの小説の力を借りて、見てみませんか?