海辺の風景

海野さだゆきブログ

八代亜紀コンサート 瑞穂ビューパーク スカイホール

僕は八代亜紀のファンだ。「キングクリムゾンによる雨の慕情」というのを1980年代に編曲したけど、演奏できる人がいなかった、僕を含めて。独特の謡い回しは唯一無二であるけど、それだけに本当の「プロ」が作った作品以外はまったく冴えない、という、難しい歌手だ。

 

今回初めて生で聴いた。本人のおおらかさが出た楽しいステージだった。バックはピアノ、ギター二人、ベース、ドラムス、バイオリン、コーラス、キーボード、パーカッション、サックス(フルート、クラリネット)。ベースの人は、スライド、ハンマリングオン、プル、などとても綺麗で流石プロ、という演奏だった。

 

歌のバックの演奏はこうあるべきという演奏だった。僕はとても勉強になった。この先歌のバックでベースを弾くことがあるかはわからないけど。

 

八代亜紀が難しい歌手だというのは、ヒット連発後の、なーんか冴えない状態が証明している。僕も持っているけど、若い作家の曲を歌うアルバム、これがことごとく冴えないのだ、なーんか合っていないのだ。その理由はわかっている。

 

昭和のプロの作詞、作曲家たちは「八代亜紀の持ち味を出すためのオーダーメイド」を作った。若い世代の作曲家たちは「自分の持ち味を出した」。八代亜紀は独特の「フェイク」を持っていて、それが唯一無二の個性、という天才なのだ。その持ち味を生かすためには彼女の歌唱の癖を知り尽くしていないといけない。なんでも器用に歌うという種類の歌手ではない。「良い曲」は彼女には合わない。「良い歌手」に合う曲が必要なのだ。

 

そして、若い作家たちの勘違いの最大なものは「リアル」だ。演歌と呼ばれるジャンルは「女、港、雨、酒」という「形式」を必ず踏襲する。それは「リアルじゃない」「そんな女いない」とか、若い作家は思うのだろうが。そこが勘違いだ。

 

歌はそもそもフィクション。フィクションの力を借りて「人にとってのリアリズム」を作る。

 

今回で言えば若い作家は「君のがんばりを誰かがみているよー」と歌う。八代亜紀の世界では「卒業する生徒たちに"何かあったら電話してこい"と先生が10円玉が入った小さな袋を渡す」である。物語の力を借りて「具体的な情景」を喚起し、その情景の訴求力で伝えるのだ。「誰かがみている」ではあまりに漠然として、想像力は言葉以上のものを喚起しない。どちらが優れているか明白だ。

 

というわけで、僕はコンサートの間、なんども泣いた。涙がでる。まわりのおじさんおばさんたちも泣いていた。境遇経験の違いを超える、それはフィクションによって超えられ、それぞれの想像力が喚起されることで、それぞれの中に、それぞれの情景が「具体的に」浮かぶのである。なんて強力なんだろう。

 

若い作家は歌がフィクションで聞き手の想像力を喚起するものであることを学んで欲しい。ミリオンセラーが出なくなったのは、娯楽が多様化したからではない。作家がだめだからだ。俳句和歌の伝統がある日本で、学ぶ材料は山ほどある。ぜひ自分はプロの作家と思う人は勉強して、もう一度歌の力を見せて欲しいと思う。

 

生の八代亜紀を聴けたのは幸せだった。この天才歌手がいる時代に生きていて良かった。