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海辺の風景

海野さだゆきブログ

「ミンヨン 倍音の法則」佐々木昭一郎監督 岩波ホール

佐々木昭一郎は映画を「発明する」ひとだ。シネコンで公開されているものを所謂映画と理解している人には「なんじゃこりゃー」である。ゴダールコクトーフェリーニを見慣れている人でもかなり面食らう、と思う。

 

「なんじゃこりゃー」の理由は山程出てくるだろうけど、まず「ゴツン」と来るのが、映画にでている人が素人だということだ。まあ、なんて棒読みなんだとか、演技じゃなくて現場のドキュメンタリじゃないか、とか、思うだろう。

 

が、佐々木昭一郎は映画を考え抜いた人だ。そういう所謂映画的な演出ができないどころかとても上手なのは代表作に先行したラジオドラマなどでわかる。そのラジオドラマの子孫は阪神淡路震災に題材を取ったあるドラマに受け継がれている。

 

僕の勝手な解釈はこうだ。僕らは真剣に、本音で誰かと話すとき、決して大仰な抑揚をつけたりしない。言っている本人は気持が昂っているので気が付かないけど、そういう時は驚くほど棒読みだ。でも、伝わる。というか、必死で伝えようとするから棒読みになる。感情が昂りすぎているときなんて、悲惨なほど言葉の断片がぽつぽつ出るだけだ。

 

実際に本音で本気で喋っているのが単なる「下手な演技」にしか聴えない、見えないのは、見ている方がおかしいのだ。いわゆる「芝居」に毒されて、そこに本音や本気があることを聞き取れない、読み取れない、そんなのが映画鑑賞なのか?

 

実際に本気でやっていることは、体のコントロールがうまく効かないから、動きはギクシャクして滑稽かも知れないし、動きはわずかだ。そういう本気の動きが「棒立ち」に見えるのは、見ている方がおかしいのだ。どうして画面から読み取れない?どうして見えない?

 

最初はギクシャク、棒読み、そう思えたかも知れない。でも佐々木昭一郎はそうしたひとを長い時間をかけて見事に説得してしまう。

 

どう?ミンヨンの声や立ち振舞いが実に自然に心に入って行かないだろうか?

 

人工音、シンセサイザーと自然倍音との対比は、所謂芝居と本気本音のそれだ。画面から自然倍音、つまり本音や本気が聴えたでしょ?それが佐々木昭一郎の映画なんだと思う。

 

1980年代では1時間ちょっとで説得できたのに、人工音だらけのこの21世紀ではなんと2時間23分も説得に要する。僕らは幸福なのか不幸なのか、この長時間映画を見ることができる。

 

最後に、名手吉田秀夫の美しい画面。しかし、何回もピントがずれているのはどうして?。わざととはとうてい思えない。ここで後ろにピントがあうはずがない、とか、アップでぼけたり、とか、それでも良い絵だから通したと、佐々木昭一郎は言うんだろうなあ。。。。僕も録音でそういう選択をするので、わかるけど、やっぱ気になりました。

 

あさっては押井さんの「遺作」のワールドプレミアだよ。。。「遺作」が続くな。。。。