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海辺の風景

海野さだゆきブログ

『世界が終わる場所へ君をつれて行く』葛西伸哉 と『あじさいの季節に僕らは感応する』志茂文彦

『世界が終わる場所へ君をつれて行く』葛西伸哉

 地方都市に住む少年が事件をきっかけに年上の美しい少女と出会い、旅をする。

 ライトノベルを自分の好みでなんとなく選んでいると、どういうわけか、こうした話が多くなる。ロードムービーなのだ。でも僕は実際の映画ではロードムービーは好みではない。実際に徒歩での旅を続けてきた僕は旅は映画のテンポではない、そう思っているからだろう。

 ここのところでは『イリヤの空、UFOの夏』がやはりこういう「道行」だった。あちらは絶望的悲惨な逃避行であった。こちらは悲劇というべきものではない。途中事故や軽い発病はあるが致命的なものにはならない。ここでは住んでいる地域社会への基本的な信頼は揺らいでいないからだろう。読んでいて心打たれたのは実はそうした「そこで暮していること」への分厚い信頼の部分だった。

 

 最後、自失状態を露わにした少女を少年は体を張って守り抜く。突然社会とのつながりを失った少女は、この社会の動きと全く関係なく生じた現象に自分を重ね合わせ、それをどうしてもその目で確かめたかったのだろう。それを見つめることは自分を見つめることになるのだから。

 

 道行きのなかで、少年の視点ではあるが、生きて行くという事は自分の知らないところで、しかしながらしっかりと動いている仕組みに支えられているのだ、と分かって行く。

 

 「これも、日常だ。僕たちの目に見えないところで、日常はしっかりと続いている。見ず知らずの『沢村』さんに甘える事で、今僕らは生きている」(188ページ)

 

 そういう実感が自分の中で確かなものになったからこそ、そうした日常から暴力的に引き剥がされ、さまよい、失われそうな少女の命をどうしてもその日常につなぎ止めておきたかったのだろう。

 

 最後の少女のせりふは、だからじんわりと胸を打つ。彼女は日常を、すなわち社会とのつながりを恢復したのだ。

 

 イラストの尾谷おさむさんはアタゴオルのファンらしい。どうりで。今のひとはまるっこい描線をみるとスタジオジブリを思い出すようだが、この丸っこさはアタゴオルだ。基本的にアタゴオルに直線はない。それに事件の中心である「銀の樹」はとてもアタゴオル的な現象ではないか!!!イラストとともに楽しめた。

 

 ライトノベルとしては、はみ出るが小説としては足りない、というアマゾンの書評はあたっているだろう。後から気が付いたのだが、この主人公もヒロインの美しい少女も名前がわからないのだ!!!!!これは画期的な事だろう。『旅に出よう、滅び行く世界の果てまで。』では世界が名前を失うという現象にみまわれているので、主人公たちに名前はないが、本作で名前がない、というは巧妙に仕組まれない限り不自然だろう。

 

 少年は友だちとの会話の中で名前を呼ばれないが、会話の自然さで気が付かない。美しい少女とはまさに偶然の出会いだが、彼女は少年を最後まで「君」としか呼ばない。電話番号を聞いても名前は尋ねていない。この「君」という呼び方は聡明で美人で年上の彼女には似合っているのでまったく気に掛もしないが、巧みだ。

 

 この名前のなさが実は僕に過去にいた誰か少女を思い出させるのだ。だいたい制服で、それも真っ白な、海軍かよ、でかけるというのがそもそも不自然なのだが、そのインパクトの強さで「なんで制服で出かけるんだよ」という疑問を封じている。そう、彼女は警察に遺体と対面するために家を出たのだ。だから制服なのだ。礼服を持っている年齢ではないから。その白さはもちろん死の白さだ。が、色がないこの少女の色が逆に過去の誰かを思い出させる。あり得ないことの役割はあり得たことを思い出させることだろう。汚れを気にしていた彼女も最後は服の汚れなど気にしなくなる。

 

「ただ、最初にあったときとは違ってシワだらけのよれよれだし、あちこちに泥水の汚れも目立つ。腕のところに付いた小さなピンクの染みは、きっと僕の血だ」(202ページ)

 

 彼女はごみの分別まで気にしている。日常が汚れのように彼女を染めて行く。現実味がない聡明な美少女がだんだんと体温を感じる存在へと変貌して行くようだ。

 

 読み出したらとまらなくなって、結局深夜に読み終え、その後も数回読み直している。かなり気に入ってしまった。そしてこの名前のないふたりが僕にものを書くという動機を与えてくれた。10年前の作品だが、電子版も存在している。作者はいろいろなジャンルをプロの書き手として現在も書いている様子だ。現在55才のくたびれたおっさんからなかなかな作品に対して時間の経ったお礼を申し上げたい。


 

『あじさいの季節に僕らは感応する』志茂文彦

 主人公を時折襲う他人の感覚。それはまったく脈絡なく予兆もなく彼の日常を切り裂いて現れる。それは妄想や精神障害ではないのかと、悩む彼の前にその感覚の「主」が現れる。実在する「彼女」に動揺し、誤解を受けながらも彼はどうしても彼女とつながっている自分を感じる。どうしても気になるのは彼女が何かに心からおびえていることだ。そして彼はその秘密を知る。

 

 考えるな感じろと言われても、では他者をどうやって感じるのだろうか。やはり、表情、言葉、身ぶり手振り、空気と呼ばれる文脈効果だろう。相手の中に確固とした意思があり、それがそうしたものとして伝わる、というのはどうも実感ではない。

 

 相手から感じるのは、こっちにすでに反応した状態だ。あらかじめ用意していても、現場では相互に影響しあい、「場の解釈」としか言い様のないものになるのではないだろうか。

 

 主人公が何に困惑するかと言えば、彼が「限定テレパシー」と呼ぶものが一方的、自分とは何の関係もない「書き割り」だからだろう。その書き割りはしかしながら実在の彼女には書き割りではない。生きている実体そのものなのだ。その距離はどう埋まるのか。第一埋める必要があるものなのか。

 

 そこはライトノベル、おせっかいな友人と都合のよい交友関係でふたりは実際に出会うことができる。単なる情報が生きている人間の重みを得ることで主人公の「限定」は解除となる。

 

 話は意外なことにいわゆる超能力の問題として帰結する。うーーん。出会って、普通に話ができるようになってきた渋谷の場面以降、能力が消失して、というのが好みなんだけど。ま、もしかしたらある続編のためにも能力は保持なのだろうか。

 

 まあ、でも一番の痛いところは、そうやって通じ合ったはずの渋谷の場面で、彼の意思感覚が彼女に流れ込み、ちょっと下世話な想像とかも「そのまま」分かられてしまったところだろうか。

 

 こうした手続きを省いた「経路」は、彼女の危機では大いに役に立ったが、スティーブンキング風に言えば、他人の意識感情を感じるとは地獄でしかない。ひとそれぞれの文脈が存在する。そこまでは分からないからだ。直結すれば分かるかと言えば、逆だろう。分からないだろう相手だから言語、非言語を駆使して表現するのだ。その過程で、生々しい当人の事情が薄まる。その緩さが対決を避けていると思うのだ。超能力集団がやがて終結し、実は友人たちも7月7日生まれで、能力が目覚める、とかいうその後だったら、まあライトノベルっぽいだろうけど、僕は沢山。前半の主人公の分かってもらえなさ、がこの作品の読みどころのように思う。

 

 ま、僕だったら原田さんだよ(笑)。だって主人公は彼女といるとずっと緊張。無理無理。お互いリラックスして話せる、そういうひとこそ大切じゃないのかな。

 

 ライトノベルは出会うのは美少女と決まっている。僕は過去にそういう見た目じゃない出会いの物語を書いたことがある。そのころ、本当は「美少女に見える」のが正解だと思っていたのだ。さすがに電柱が美少女に見えたりはしないだろうけど。女性の美しさを感じる瞬間って、顔の整い具合いと関係ない、そう確信している。どうだろう。ご同輩。