海辺の風景

海野さだゆきブログ

歌はその人のもの

youtubeで昨年末のライブ映像を公開している。時々アクセス数をみに行く。驚いたことに「マイレボリューション」が400近い。骨折後思うようにならない左手の指に苦悶しながらの演奏だった。アマチュアだからこそ聴いてくれるのはとても嬉しい。

 

関連映像にアメリカの少女のカバーがあった。どうも「プロデビュー」しているらしい。彼女の公式websiteによれば、民放ののど自慢大会で優勝したらしい。その番組は「外国人が日本語で歌う」のが主旨だったようだ。

彼女には気の毒だが「赤いスィートピー」で笑ってしまった。これ、「モノマネ」である。完全な「外見のコピー」ナノだ。いや、もちろん、学ぶ上でモノマネは必須の過程である。本歌の細かいニュアンスまでよくぞここまで、と思えるほどコピーしてある。

しかし、それは「彼女の歌」といえるのだろうか。ああ、そうだよね、松田聖子はそういう「癖」があるよな、と本歌を思い出すだけなのだ。それは「歌手」として屈辱ではないだろうか。

 

「ガイジンにしては日本語ウマイね」。これと同じなのだ。「伝えようとしている中身が問われない」という「完全無視」。冗談だが、「おどりゃー、どたまかちわったる」とか真っ赤になって怒って言われても同じように「いやあ日本語ウマイね」なんて言うだろうか?

 

「未来から来る演奏家を聴く会」で、若手の歌手を何人も聴いてきた。クラシックだからドイツ語イタリア語フランス語英語なんでもある。もちろん日本語もある。僕は出演する歌手を何語だから、というポイントで聴いたことがない。そんなことは些細なことである、というレベルなのだ。

 

イタリアにいた歌手のおもしろい話がある。「あわて床屋」を歌うにあたって内容を説明したが、その南イタリアの人たちには蟹の擬人化がどうしても理解できずに不可解な顔を並べていたという。ただ、コミカルな調子は伝わったらしい。そこだ、そこ。

 

ベッツィー&クリス、ヒデとロザンナ、歌謡曲に「ガイジン」は珍しいわけではない。アジアの歌手もたくさんいる。僕はAminさんが素晴らしいと思う。彼女にしかない歌い回し、ニュアンスがあるからだ。彼女のアルバムは中国語も日本語も混ざっているが、まったくそういう言語のちがいなど問題にならない。彼女がそれをすべて自分のものにしているからだ。

 

話題性でデビューできた、というのならば、それは不幸だろう。プロとしてみれば単に器用なだけだ。彼女の歌をうまい、というのは彼女にとっても不幸だろう。いま、日本で音楽を売りまくっているのは「音程も発声も発音もとてもプロの歌手とは呼べないレベル」だからだ。つまり、「音程と発生と発音」が良ければ「うまいねー」と言われてしまうのだ。これはプロとしては屈辱だろう。プロ野球の選手に「野球ウマイね」なんて言えるものかどうか。

 

デビューはきっかけにすぎないから、これから、というのも気休だろう。アメリカの「アメリカンアイドル」のレベルは「即全米チャート入り可能」だ。外見や話題性だけではとても通過できない。が、不幸なことに日本では外見や話題性でチャート入りできるのだ。肝心の歌は問われない。それは歌手としては屈辱でしかないのではないだろうか。

 

もし、彼女に可能性があるとすれば、その完全コピー力で「ちあきなおみ」をマスターすることだろう。天童よしみ美空ひばりの完全コピーで技術を上げた。コピーする中で、美空ひばりには成れない自分を見つめたことだろう。これが天童を生んだ。ならば、もうひとり、誰もがコピーさえできていない「ちあきなおみ」をやってみてはどうだろうか。「さとうきび畑」はオリジナルは彼女だ。まさに鳥肌が立つ名唱である。「矢切の渡し」。そしてラスト2枚のアルバム。特に「百花繚乱」。彼女のコピー能力ならば何かをつかむような気がする。ま、彼女のスタッフにちあきなおみをちゃんと知っている人がいるともおもえないが。

 

たぶん、お金持ちになったつもりで話題性や外見で音楽にお金を出せるようになった。それが日本の音楽を貧しくした。昼飯抜いてでもレコードを買ったあのころは単なる郷愁になった。人には腹が減るより辛いことがあり、それを慰めてくれるのは音楽だけだった時代が。