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海辺の風景

海野さだゆきブログ

承前 その2

と、朝日新聞京王閣が女性のお客さんを呼び込む企画に力を入れているという記事が。もちろん、そういうのも必要だけど、やはり競技の魅力を伝える方法を磨いたらどうだろうと思った。

 

話は戻る。上のレストランに行く、食券方式。席は奥の4人がけを除いて座席からしっかりレースが観られるようになっているし、大型のモニタがオッズを伝えている。僕は本日のランチ1100円なりを奮発。食事はすぐに出てきた。普通な感じ。

 

下の座席では弁当持参のひととか、コンビニで買い込んだだろう人とか、節約モードもある。そりゃそうだ、目的が目的だけに。僕はそうした様子とか、データを読み込んでしっかり投票する姿をみて、「これはマメじゃないとできないよな」と思った。

 

ギャンブルはいい加減、というイメージがあるけど、逆なんだ。マメだからハマるのだ。この「マメ」というのは、「身体的な」と言い換えてもいいかもしれない、なあ、、、と思った時、はっと気がついた。

 

そうなんだ。馬とかオートバイとかボートとかじゃなくて、競輪は人間が100%と言ってよい競技だ。僕がコノ目でみて感じた圧倒的な何か、とは選手の肉体、身体なんだ。

 

ああ、そうか。。。。だから競輪は一番落ち込んだのだ。。。。。。僕は同時期にひどく衰退してしまったジャンルを思い浮かべていた。

 

プロレス。。。。。僕はある時、突如プロレス、それも女子プロレスにはまった。それもFMWにだ。大仁田さんが作ったそのプロレス団体は「ごった煮」プロレスだった。女子もルチャもミゼットもあったのだ。工藤めぐみ選手のファンになった僕は、可能な限りFMWを追いかけた。

 

そのFMWは「デスマッチ」が売り物の過激興業に走った。普通にプロレスやっていたのではお客さんを呼べなかったからだろうが、そこに「痛みを伝える」という言葉が加わることで、メッセージ性を身につけた。

 

大手の団体の鍛え上げた選手ならば、それこそロボット、サイボーグのように常識では考えられない技の応酬を楽しめる。が、ランクの落ちるFMWの選手達は「痛さ」を隠せない。FMW女子プロレスでは悲鳴があがる。全女ではありえないような悲鳴、僕等が痛いだろうな普通、という風に感じるところで「いたーい」と声がするのだ。そこがFMWのファンになってしまう要因だったと思うのだ。それは昔からのプロレスファンからすれば「プロじゃないレベル」なのだ、ただ情けない、というだけのことだ。

 

が、時代はその「痛みを感じてくれ」というメッセージを何故か発信させ、それに共鳴する人たちを生んだのだ。なぜだろう。僕はこう思うのだ。時代はすべてがバーチャルになってゆくところだった。パソコンはまだパソコン通信程度だったが、ゲームはすでに「仮想現実」について答えを出していた。

 

ゲームはあの当時すでに「仮想」と「現実」の境界を壊していた。僕はコンピュータはやっていたが、ゲームとはまったく無縁だった。大学に入って、同級生たちがやたらと競馬に詳しいのに驚いたが、それはファミコンのゲームのせいだったのだ。

 

働き出して、おっさんたちと若い人たちが競馬では楽しく話している光景は不思議だった。若い人たちは「仮想」から「現実」へ行った、そういう風に言えるだろうが、実はすでにその壁はなく、若い競馬ファンは現実を仮想現実的に処理していたのではないかと思うのだ。「仮想」にあったことを「現実」にみつけている。すでに何かが逆転していたのだ。

 

ゲーム世代、そしてFMW、それらは2000年付近を境に、この国の人が何か違うベースを得た、あるいはそれまでのベースを失ったことを象徴しているように僕には思えた。

 

得たものは「仮想」。失ったものは「身体性」ではないかと思うのだ。道具は「身体」の伸張、エクステンションだった。が、計算機の利用方法は「情報処理」、データ処理の伸張、脳の伸張、だった。

 

「痛いんだよ。俺たちは痛みを感じる肉体をもっているんだよ。」僕はFMWはそういうことを伝えたプロレス団体になっていた、と思う。が、横浜アリーナ、工藤選手が運ばれた救急車を見送っていた僕は、何かが完全に終わりつつあることを感じていた。

 

子供たちは体を動かし、みずからの身体情報を元に遊ぶことを止めた。。。。。。時代はプレイステーション、画像処理の怪物を得て加速した。敵は倒すと消え、自らの「死」はリセット可能になった。

 

ロックコンサートは巨大になり、人は会場にいてもモニタを観ていた。テレビは「隣のかわいこちゃん」を量産し、「隣」という空間を完全に消去した。画面の中では「ひとの形をしたもの」に、匂いも重さもない。

 

レースは圧倒的な「身体性」を放ちながら続いていた。そうか、若い世代はこの「身体性」こそ回避すべきものだという存在のあり方を選択している。彼や彼女は「キャラ」に還元され、多様でもてあましてしまう「身体」は置き忘れられている。

 

しかし、人は「身体性」から離れられないだろう。そこから離れて生きてゆけるものではないからだ。空を飛ぶことに熱心だったアニメ監督は引退し、その引退作ではいままでにないほど登場人物に「重さ」を加え、画面から匂いをさせようとしているのか、やたらとタバコを吸わせていた。

 

僕は阪神ファンだ。ご多分にもれず「プロ野球ニュース」的なものに毒されて、いっぱしの評論家気取りで野球をみていた。が、それは落合記念館で落合選手が使用していたバットをスイングした瞬間に吹き飛んだ。篠塚選手のグラブをはめた瞬間に電撃とともに消失した。

 

これでも病気をするまでのわずかな間だが、少年野球をやっていたのだ。その道具からプロ選手がどれだけの怪物なのか、ものすごい身体を持っているのか、即座に分かった。以来僕は選手をしったかぶりでは語らない。もちろんファンだから無責任なことは言うが、彼らがスーパーマンの肉体を持っていることは知っている。

 

福岡のホークスの本拠地には、プロ選手のすごさを実体験できるコーナーがあった。当時抑えのエースだった馬原選手の投球速度を味わえたり、バットスイングの速さを測定できたりする。そこでプロがいかにすごいか分かるのだ。

 

どうだろうか。西武球場は野球が終わるとグランドに下りられる。そこで人たちはキャッチボールやノック、ベースランニングを味わえる。そこで思うわけだ、プロのすごさを、自分の身体性に照らして。

 

バンクで走るなんてのは無理だろう。が、歩くとか、走る、とかいうイベントをやっても良いのではないか?ピストの経験が出きるとか、それこそバーチャルにレースの中で走行、ただし自分はちゃんと漕ぐ、とか。。。。

 

でも、時代はすでにあらゆる方向で身体性を消し去ろうとしている。それに対抗するにはどうすれば良いのだろう。よく分からない。しかし、どこかしら「仮想」の限界、病理を感じている人は多いのでは、と勝手に期待している。が、スマートフォンを自転車に乗りながら見ているひとがいるくらいの壊れ方だ。難しいかもしれない。

 

いや、計画停電でゴーストタウンのようになった自分の街を僕は思う。いつまでも「電気食うぜ」の仮想は続かないように思うのだ。いや、願うのだ。

 

お金たまったら、今度は立川、京王閣、大宮と行ってみたい。