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海辺の風景

海野さだゆきブログ

押井さんの「攻殻機動隊」再び

神山さんの第一シリーズをずっと見直していた。刑事ドラマとして痛快な出来だ。「笑い男」(と呼ばれた男)の正義感に何かこう呼ばれるものがあって、そのことを考えていた。

 

で、ふと押井さんの劇場映画の方を見直している。押井さんの作品に関してはいつもながら「モラトリアム」という言葉が使われて感想が述べられる。

 

しかし、「モラトリアム」なんて誰に可能なのだろうか。生まれたときから社会システムに雁字搦めじゃないか。「自己決定」なんて誰が「自由意志」で可能なのか?選択の余地なんて殆どない。

 

僕が押井さんの作品に惹かれる理由は身体への不安が大きい人生を生きてきたからだ。体が当たり前、という人生ではなかった。交通事故で意識不明の時間があった、それも約3日間、という人間からしてみると「私」は確固たるモノではない。

 

長時間の手術。その後の長期間のリハビリテーション。それらも体が当たり前、という意識を否定した。そうではないのだ。極めて不安定、不特定なものだ。「私」というものは。

 

「私」とはなんなのか、僕にははっきりとは分からない。消失して「戻ったり」、いや本当に「戻った」のかは分からない、再構成されたりする「私」とは何か?

 

ま、僕を「構成する」色々な細菌やらなにやらの皆さんからしてみれば、「勝手に決めつけるなよ」とか「そういうことにしておけよ、基盤を安定させてもらわないと迷惑」とか、なのかもしれない。

 

ま、こんなことを考えるのも「青春再び」、人生下り坂まっしぐらだからだろうな。忙しい時にはこんなこと考えもしないで、周囲への不満だらけだからな。

 

静かに夕暮れは来た、そういうことだろう。僕は自分の全部を知らないまま少なくともまとまりある存在としてはまもなく終わるのだろう。