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海辺の風景

海野さだゆきブログ

「偽」にせよ「ベートーベン」は破格の扱いでは?

音楽

ヒットしたCDの作曲者が実は別人だったらしい。僕は話題の作品をまったく聴いていない。広島に関しては林光さんの「原爆小景」以上の作品はありえないと思っていたから。最初に聴いたときはまだ未完だったのだ。「水ヲ下サイ」を最初に聴いたときには本当に全身震えが来た。

 

トッドラングレンの「ヒロシマ」以上のものも聴いたことがない。僕は日本人がこれを歌わないのが理解できない、フラワートラベリングバンドくらいだろう、と高校生の時に組曲を構想し、一部は大学生の時に作った。と、言っても所詮素人のロック音楽である。

 

原爆投下について色々な見解があるのは知っている。僕が一番こころに残ったのは、当時「日本人など全員死んでしまえばいい」と思っていただろう人々がいた、ということを忘れてはならない、という見解だ。

 

その人たちが悪者なのかどうなのかとか、関係ない。人が人を死ねばいい、という状況に追い込まれてしまう、それが心を痛めたのだ。その状況に追い込んだのは誰なのだ。誰が誰を殺した、という喧嘩をする前に、人を「殺し殺される」という状況に追い込んだ人間の責任を罪を問うべきだろう、と思う。

 

市井のひとが「水ヲ下サイ」と苦しむ。それが日本人であるかとかどうかは「原爆小景」の中ではまったく問題にならない。聴けばわかる。どうして水が飲めないのか、その人たちはまったく分かっていないのだ。何が起こったのか分からないのだ。それでも渇きは激しくひとを責め立てる。

 

そのすざまじい音楽。僕はこれ以上のものはない、即座に判断した。その後福永武彦の「死の島」読書経験とともに、大きくなった思いは作品作りへの向かった。

 

感動を作品にして形にしたい。僕のつたない組曲はそうやって始まったが完結させられなかった。話は渋谷のスクランブル交差点の真ん中で突然「狂った」男のはなしから始まる。彼はこの日本が放射能に汚染されている光景が見えたのだ。朝目覚めると外に黒い雨が降り、空気中のウラン235の粒子が見える。

 

当時バブルまっさかり。僕は世田谷東横線沿線に住んでいたけど、その空気を濃厚に溜め込んだ渋谷が嫌いで、横浜にばかり行っていた。組曲はそれへの反発も歌っている。引きこもり状態で映画館に逃げ込んで1日映画を眺めていた、そんな大学生時代だった。オーバーダビングをして自作自演。

 

河原を死んだ子供をおぶって彷徨う母親の歌を録音したあたりで僕には限界が来た。自分の構想に向き合うだけの精神力がなかったのだ。所詮引きこもりの青年の未熟さ。ちょっと希望のある歌を最後に入れて終わった。それも今で言えば「地元に帰ろう」みたいな内容だった。

 

ヒロシマとカタカナで書かれる。そのことを表現するのには人間の声が絶対だ、そう思っていた。「コレガ人間ナノデス」。なのでオケ作品と聞いてまったく興味が出なかった。

 

長々と自分の思いを綴った。怒りは人の声でなければ表現できない。そう思うのだ。

 

しかし、ベートーベンとは。「偽」にせよ破格の評価ではないか。若い頃はロック少年だったせいでバカにしていたベートーベンだが、いざちゃんと聴いてみて、圧倒された。いまだに演奏されるのがよくわかる。ものすごい難物なのだ。いやしくも音楽、西洋音楽をやる以上は向き合いたいと思わせるものがあるのだ。

 

例えばチクルス。最初の方はそれ以前の音楽の影響が見えるが、段々と進むにつれ、それを乗り越えようとする試みみたいなもの、シロウトなのでそうとしか言えないけど、が出てくる。そして最後の方では「なんじゃこれは」と思えるところまで、僕に言わせれば殆ど抽象音楽、来るのだ。すごい音楽への探求。圧倒的だ。

 

作風をなぞっただけの作品に「ベートーベン」は失礼だろう。いくら「偽」とはいえ。

 

林さんも「原爆小景」完成に長い年月を必要とした。それは分かる。2001年に「完結」と聞いて驚いたのだ。終わっていなかったんだ。。。。そして、その最後の歌が希望の曲であることに僕は深く感動した。僕もそうせざるを得なかったから。

 

僕がこの代作問題で悲しいとおもうことがあるとすれば、ヒロシマとカタカナで書かれることがらについて、真っ先に林さんの「原爆小景」が出てこなかったことだ。多くの人が知らないのだ。聴いていないのだ。もし、知っていれば。。。

 

怒りは人の声で。

 

3月11日に演奏されるべきだ「原爆小景」。怒りは人の声で。