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海辺の風景

海野さだゆきブログ

BANYMETALはJPOPの統一理論だ!

敬愛している脚本家でもある小中さんが本まで出していたのですね。僕がごときが何か言っても大外れだけど、言い切ってしまおうと思いました。

 

にわか勉強ですけど、ヘビーメタルとか、ヴィジュアル系、アイドルについて頭に入れました。サカナクションの山口さんのNHK-FM、日曜日1800の番組がすごくためになりました。まさに丁度よいタイミングでした。

 

スタジオ録音はライブブルーレイの後で聴いたんですけど、順番が逆だったら、聞き流して終っていたと思います。

 

面白いんだけど、言葉遊びに終っているかなあ。

曲が間延びしているかなあ。

音楽的にはごった煮すぎているかなあ。

とか、もし音だけ最初に聴いたら思ったと思うのです。

 

ライブを観ると、間延びなんじゃなくて、フロントの大活躍の時間なんですよね。歌詞は振り付けがあることでセリフのようになって、面白く感じます。ライブこそ本来の姿のようですね。音だけより圧倒的に面白いです。

 

で、ごった煮の件ですけど、なんでメタルなのかなあ、ってところですね。メタルはドラムスのキックの連打が示しているように、リズム的にはもうこれ以上はないところまで来てしまっている音楽だと思うのです。形式美と言えば恰好は良いですけど、行き詰まってしまったという言い方もできるかと思います。

 

行き詰まると、枝葉に走ると云いますか、違うと言われる方向性のものを載せたり、ちがうジャンルと言われる曲をやってみたりと、出口探しがはじまります。

 

これ、行き詰まり、という捉え方ではなくて、安定したプラットフォームだと思えば、なんでもまとめられる、取り込める強力この上ないものになるのです。

 

つまり、メタルは、歌謡曲だ、演歌だ、アイドルだなんだと細分化してしまった日本のポップスの統一理論になりえたのです。全部メタルでいいじゃないか。です。実際驚くほど全部なじむのですね。本当にびっくり。

 

これが楽しくないわけがないです。はい。ライブパフォーマンスとしての力を取り戻したところといい、今後も楽しみですね。YMOがテクノで統一理論だりえたことに続いての中々に面白い現象です。

 

『Babymetal Live at Wembley 』ブルーレイディスク

始まりは木場ストックでした。LadymetalさんというBabymetalのコピーバンドを観たことでした。バンドはコピーといっても、本家同様3人の女性ボーカルをフロントに置いて、その振り付けまで本家そのまんま、という本当の「コピー」バンドでした。

 

還暦前の老人ですが、Babymetalは知っていましたし、いわゆる音楽評論の固定的な評価も耳にはしていました。

 

「まあ、メタルの要素は揃っているよね」

 

木場ストックでLadymetalをライブで体感した僕は、いや、これ、ちょっととんでもないことなのではないかと思ったのでした。Ladymetalさんが本質を捉えたパフォーマンスをしてくれたからです。そうです、僕はコピーバンドを通じて、その本質に気が付いたのです。Ladymetalさんに感謝します

 

Babymetalは21世紀の三味線音楽だ。

 

鶴屋南北近松門下、などなどは21世紀の今にタイムマシーンに乗って来ることができたならば、間違いなく絶対に、確実に本当にこう言うと思います。

 

「だろ?俺たちは最初からこういうのが目標だったんだよ」

 

と、いっても、これは歌舞伎ではないでしょうとは思います。江戸期の三味線音楽は300種類あったとか。その中でも「ダンスミュージック」でしょう。

 

当時も今もダンスミュージックはクローズドな空間で演奏されるようです。屋外でやると「煽り」に押さえが効かないのは今も昔も同じ様ですから、ひたすら面倒を嫌う軍事政権である江戸政権はこうした音楽を屋内でやってもらうようにしたようです。

 

ま、たぶん、屋外でのダンスミュージックは「神様」と供にある種類なので、オープンエアというのは「神様」の領域ですから。神様に捧げる音楽はオープンエアなんですね、たぶん。

 

「神君」という神様以外は認にくい江戸政権は「屋内でやってくれよ」っていう姿勢だったのではないでしょうか。

 

で、ダンスミュージックなので、言葉の制約をあまり受けない。つまり、「国境を越える」種類の音楽なんですね。だって、ノリがすべてですから。

 

ノリがすべてというと、では中身はどうでも良いのかと言えば、逆だと思います。「扇る」ことが言葉になければ、ノリはこの場合生じないのです。

 

Babymetalの歌詞が「案外と中身あるじゃん」と思うあなた、正解です。いまの僕らの生きているリアリティに届かなければ、このダンスミュージックは成功しないのです。

 

ややこしいことを言いますけど、社会性というのは、この日本でも室町以降は「身体性の制限」にあったと思います。人間は移動が結構気楽になおかつかなり柔軟に行えるんですね。だから、色々な制限のうち、「位置」に関する縛りには、はなから自由なんです。

 

封建制から始まる「国家統制社会」は自由な移動を嫌うんですね。だって、「嫌なら逃げる」だと安定しないんです、権力からすれば。東京の一極集中が嫌だと、地方の政権が思うのは「俺こんなムラ嫌だ」で移住しちゃうことができるからです。東京サイグ(東京へ行く)側からすれば「我慢して留まってくれ」という言葉に説得力がない。。。。。つまり政治力ない。。。って事です。

 

で、まあ、クローズド空間に権力によって閉じ込められたようですが、どっこい、そこに落とし穴があったわけです。クローズドなので、政治的なNGに触れることも「クローズドじゃん、民衆を扇ったりしてないよ」で、オッケイになってしまうのです。

 

で、まあありとあらゆるタブーが「クローズド」で演じられるわけですよ、特に江戸期は。

 

で、扇情的なテーマをそのままやっても、少なくとも人間に関する表現を突き詰めてきた作家や演者は「そんなの下品、客をなめてる」って云う感じで、ひたすら表現を磨く方向に突き進んだんですね。

 

だって、現実の方がよっぽどすざまじいのですから、作り事がそれに対抗するためにはめちゃくちゃ作り込まないといけなかったわけです。江戸期は猟奇事件、政治的な大事件、結構な数あるんです。軍事政権の作り出した鬱屈した社会はそうした病理を次々と産み出したんですね。

 

現実の大事件よりも人の心を打つものを作りたい。それが江戸期のクリエイタの姿勢です。

 

で、クローズド空間では楽器奏者はとんでもない数のレパートリーを持っている「絶対間違えない人」になり、フロントの「ダンサー」は一部の隙もない技術を身につけた人になったのです。

 

なぜでしょう。彼らは取締側から「突っ込み」が入らないことを非常に意識したからだと思います。

 

「え?俺たち譜面通りだし、踊りも振り付け通りしかやってねえよ」って。「問題アルならば譜面で指摘してよ、すぐ直すし」。

 

我田引水?

 

いえいえ、そういう「やたらと正確な演奏や演技」は日本の伝統なんです。Babymetalさんは江戸幕府に気を使う必要はありませんから、歌う内容、演奏内容もずっと自由です。はい。ヨーロッパの若者が感じるくらいには。

 

江戸期のクリエイタたちがそうであったように、実際の事件のインパクトに負けない「創作」のために「やたらと正確な演奏や演技」は今なお強力な武器なのではないかなあ、と思いました。

 

はは、へ理屈はともかく、ブルーレイで観る彼らのパフォーマンスはすごいです。演奏はもうどこも突っ込みどころがありません。ひたすらすごい。フロントの女の子3人も酸素ボンベ必要でしょ、のがんばり、でも笑顔満面、で感動的です。

 

しかしまあ、「かごめ」で熱狂コールの英吉利の若者を観て、大久保たち明治政権初期の政治家たちに1時間くらい説教したくなりますね(笑)。

 

外貨獲得できたじゃん、当時だって!英吉利の若者の支持を取りつけられたじゃん、当時だって!誰か、明治政権初期の渡英に、当時の日本最強の「バンド」を連れて行くという、巴里万博よりも早く、ライトノベル書いてください。

 

伊万里とかもよかったけど、やっぱ「文化輸出」は桁違いの外貨獲得をしたと思うのです。はい。

 

Babymetalの音楽、在り方についてはたぶん、ずっとすごい論評がネットにはあると思います。還暦目前のジジイは

 

おお、これ、130年前にできたじゃん!

 

と思ったのですした。いやあ、でもやっぱ彼らはライブ最高ですね。死ぬ前に一度ライブ行くぞ!

 

『恋愛3次元デビュー』カザマアヤミ 著

サブタイトルが「30歳オタク漫画家結婚への道」とあります。まあ、まんがに純粋培養されたような女性が人生の今後に危機感を抱いて、パートナー探しをする、というお話です。

 

目立つエピソードだけを取り出すと、あり得ないようなことですべて埋まっているようですけど、全体からすると普通に通過するようなことを通過し、乗り越えるようなところを乗り越えていったと思います。

 

他人の人生を覗き見する、それを肴におもしろおかしく楽しむというのは、これまた普通にある娯楽ですよね。僕も十分に楽しみました。ただ、ご本人たちが言うほど変っているとは思いませんでした。

 

人は今までの環境から掛け離れたところで何かをしようとすれば、本人もびっくりするような失敗をしますし、その一生懸命さが第三者には笑いの種にもなるでしょう。

 

僕は彼女、作者さんですね、はまんがを仕事にすることで実はすでにすべての準備ができていたのではないかと思うのです。

 

ひとりよがりでは漫画家にはなれませんよね、そもそも。ひとりではまんがはなりたちませんし。商業誌のレベルならば、編集者との共同作業でしょうし、リテイクをくらいまくりながらも「次の手」を作り出して、「注文に応える」ということをずっとずっとやってきているわけですよね。

 

作ったネームがだめでも、他人のせいにして終りってわけにゆきませんよね。次を作り出さないと明日はありませんよね。

 

結婚生活も、生活ですから、次から次に起こることに対して、あれやこれやと次々に手を尽くしてゆくことですから、同じです。他人のせいにできません。ましてやパートナーのせいになんてしたら、

 

そもそもそいつを選んだのは誰だよって、自分に跳ね返って来るだけですから。

 

自分の失敗として受け止め、次を繰り出す。同じです。

 

なんか、漫画家という普通じゃない仕事とか、女子校まっしぐらとか、普通じゃない部分が面白さとして読まれているのならば、それは違うように思いました。

 

それこそ「普通の」会社勤めのひとたちより、ずっと結婚生活に必要なものが鍛えられてきていたのでは、と僕は読みました。彼女はそれこそ読者の楽しみという「目に見えない」注文に応えて来たのですから。夫婦である、パートナーである、という「目に見えない」ものに対する準備は整っていたのでは、と思いました。

 

この作品と同時に、過去にとらわれ、自分にとらわれ、自分も未来も「曲げない」で、苦しい境遇になった男女のまんがを同時に読んだので、こちらのまんががとても健康的に思えたのでした。。。。

 

なかなか良い作品でした。

木場ストック2017 2日目5月4日

久しぶりに木場ストックに行ってきました。もう何年も行っていませんでした。今年で20年目。なかなか良い方向に進化していました。

 

10年前に自宅録音引き籠もり状態から、バンドに加入することを選んだ時に、この木場ストック出演が僕の中での目標でした。5年前にはなんとか1次予選通過、2時予選のライブに出ることができました。

 

www.youtube.com

これはそのときの予選の模様です。はい。

 

残念ながら本番にはでられませんでしけど、予選とはいえ、木場ストックに参加できたことは僕の名誉です。

 

当日はよい天気、そして名物?の強風、と木場ストックらしい環境でした。客席は完全禁煙になり、とってもさわやかです。

 

幕開けは高校生バンド。出演枠を作ったようです。よい事だと思います。出るバンドが段々と固定化して、年齢も上がってきていましたから。それに、やはり若い人にチャンスを、というのはこうした地元密着のイベントではとても大切なことだと思います。

 

若いバンドが良かったですって、年齢からすれば全員僕よりは若いのですけど(笑)、技術はすごく上がっていますし、なによりも、観てもらおう、聞いてもらおうという姿勢が前に出ていまして、変なテレが微塵もなく、とってもさわやかでした。

 

最後、 Aerialさん。上手になりましたね。最初から上手かったけど、隙がありません、プロの演奏です。曲も演奏もよいです。でも、皮肉なことなんですけど、心地好さが「通り過ぎる」につながってしまったような気がします。音楽って難しいですね。

 

最高の野外ライブでした。また休みが合えば行きたいです。

 

振り返って、自分がたといバンド活動復活したとしても、もう若い人と対バンってのもあり得ないでしょう。現在、ライブハウスを含め、そういう試みはみあたりませんし。

 

野外ライブってうらやましいです。

 

もし、あったとしても敬老の日、野外ライブってところでしょうか(笑)AEDとか酸素とか医師看護婦待機のライブ。。。。。

 

木場ストック、スタッフのみなさん、よい仕事でした。ほんとに。

『鶴ヶ島コンビニ戦記』幻夜軌跡 著 芳村拓哉 イラスト

全国制覇を狙うコンビニ最大手ヘブンは四国に根差し地域共存を掲げて経営していたコンビニチェーン、レガシー壊滅作戦に出る。戦いはし烈を極め、コンビニ戦士と呼ばれる者たちに過酷な選択を強いるのであった。

 

作者のコンビニ勤務経験を下敷にしたガンダム的なおはなし。その愛というかなんというか、複雑な感情が文面に出ていまして、その熱量の高さで楽しく読めました。

 

コンビニのバイトが勤まればどこでも通用するよ、なんて言葉をどこかで聞いたことがあるのですけど、コンビニのオペレーションにいくら熟達しても、なんらの資格が得られるわけでもないです。ただ、一度に複数のことをやる能力は高まるでしょう。

 

ただ、ひたすら消耗でしょうね。どうなんです?実際。

 

次から次へと、とんでもない人が登場してきまして、おいおいってけた外れの行動をするのですけど、、、多少の誇張はあるにせよ、なんだか実際に居そうですね、こういう人たち。

 

惜しむらくはバトルの本番が描かれていないことです。これだけの文章量を費やしてもなお序章なんです。いやあ、惜しい。続編はどうなんているのでしょうか?

www.tsurugashimashi.org

はい、街起しの活動として現在バリバリやっていらっしゃいます。「その後」はなんと、フルカラーのまんがとして読めます。

 

そうなんです、「その後」はリアルに鶴ヶ島で展開中なのでした。いやあ、素晴らしい。

 

『世界で2番目におもしろいライトノベル』石原 宙 著 H2SO4イラスト

ゲームが成熟期を迎えているのではないのかなあ、と遅れてきたゲーム好き老人は思うのです。で、もともとはそのゲームのノベル化みたいなのがお得意だったライトノベルも同じ現象が起きているように思います。

 

ゲームの「設定」自体に自己言及しているみたいな「設定」のゲームが多いように思います。どうでしょう?僕はそれほど多くのゲームをしていませんけど、直感的に思うのです。

 

先日発売日に購入、早速はまりました『NieR:Automata』って、二次元シューティングゲームみたいに始まって、途中セーブできないんです。そうですよね、シューティングゲームってセーブと無縁の存在ですよね、でも、RPGみたいなことを期待してプレイしはじめる現代のプレイヤーは「セーブできねえ?クソゲー!」っておもっちゃうわけで、僕も最初は「おいおい」って思いましたけど、

 

シューテイングゲームでセーブって思う方がおかしい。

 

そう、ステージをクリア、それしかないのです。このゲームの「設定」をゲームに採り入れたことを楽しめるかどうか、ユーザが問われているわけです。最初の二次元シューティングゲームっぽい画面を見たら、「お、そう来たかい」って楽しまないと。。。。

 

ゲームに言及しているゲーム。

 

まんがは随分と前にそういう「現象」が起こりました。トキワ荘世代ですでにそういう作品があります。『天才バカボン』なんてそういう自己言及、再帰的定義をよくやっていたと思います。

 

アニメでも唐の昔に、です。幻に終った押井ルパンの「ルパンはいなかった」なんて、そういうことでしょうし、年をとらないはずのキャラクタを「加齢」させた、なんてこともそうでしょう。

 

そもそもの「設定」を問う。おもしろい試みですけど、下手をすれば「で、だからなんだっての?」になりそうでもあります。

 

で、この作品のように、ゲームの設定、その影響を受けたライトノベルの設定を現実に下ろしてみる、というのも、同じ試みのひとつだと思います。

 

さて、例えば「魔法少女の終り」はすでに魔法使いサリーでも描かれていたような気がしますが、僕にとってはマミが鮮やかにそれを描いていたように思います。

 

この作品はそれをどう描いたのでしょうか。アニメが、例えばロボットものが「リアルロボットもの」を経て、なかなかに描かれにくいものになり、本当に「ただの兵器」みたいになっている現状をみるに、ゲーム、そしてそこから派生したライトノベルたちにおいて「現実からの跳躍」は難しいものになっているのかなあ、とか。。。つらつら思うわけです。

 

ねーよ帝国も現実に侵食され、「翔べない」状態に陥るのでしょうか。仮想空間が現実化するとか、異世界が現実に侵入するとかいう「設定」のゲーム、ライトノベルが多いですけど、僕にはそうした仮想空間が現実に侵食されて、境界線を失いつつある、と見えるのです。それは実は想像力の低下であり、現実感の喪失であり、あんまりよい傾向だとは思わないのですが。。。

 

巨乳の美少女が40才、50才、60才になったことを描く作家、作品が出てくるのでしょうか?それとも「永遠に17才」という「学園祭前日」に永劫回帰するのでしょうか。

 

はて。。。。

 

 

『神様がくれた背番号』松浦儀実 著

流れ流れて天王寺。ホームレスのケンちゃんには小さな友だちがいた。阪神ファンのふたりは野球板でゲームをするのが一番の楽しみ。そんなケンちゃんに神様が現れ、願い事をかなえると言う。

 

車中、電子端末で読み始めた僕はそれをすぐ後悔しました。ひ、人前で泣けないじゃないですよ。。。。。それでも読むのをやめられません。

 

知りませんでした、こんな作品があったなんて。『ヒーローインタビュー』もそうですけど、阪神タイガースには「話」が似合います。似合いすぎます。

 

僕らはスーパーマンのプレイを見ています。スーパーマンだから野次れるのです。素人だったら気の毒すぎて野次なんて飛ばせません。僕ら素人とスーパーマンとの気が遠くなるような距離を知るからこそ、どこかしらその距離を埋める何かが欲しくなるわけです。

 

応援、グッズ購入、蘊蓄、なんでもそうです。そして阪神はなぜか「話」が一番似合います。生活の中に野球が、阪神タイガースがいるからでしょう。

 

立ち上がるのはケンちゃんだけではありません。スーパーマンたちの活躍こそ僕らを立ち上がらせるのです。

 

絶対のお勧め。でも車中では読まない方がよいです。